半坪ビオトープの日記

内宮、正宮


五丈殿の先には、左手に忌火屋殿が見える。内宮境内にある各神殿に供える神饌を調理する所。御火鑚具(火きりの杵と檜の板)を用いて得た忌火(清浄な火)で調理し、辛櫃に入れ、さらに御祓いを行い供える。建物は切妻、妻入、素木造で、屋根は二重、煙出しが設けられている。

忌火屋殿を左に見ながらやや右手に進んでいくと、正宮に向かう表参道には樹齢数百年の巨大な神宮杉が数十本も聳え立っている。やがて左手に正宮の南御門出口の石段が見えて来る。正宮は頑丈な板垣で厳重に囲まれている。

正宮の南御門上り口の前では、参道の真ん中にも神杉が立ち並び、その右手には切妻造・板葺・吹抜の御贄(みにえ)調舎が建っている。御贄調舎では、内宮の祭典の時、神前にお供えする神饌(御贄)の代表として、鰒(アワビ)を調理する。他の神饌は忌火屋殿で調理するが、鰒だけはここでお祓いをした後、最後の調理を行う。明治以前は前の島路川の中に黒木の橋を架け、そこでこの行事が行われたという。石の神座に天照大神御食津神である外宮の豊受大神を迎え、権禰宜が塩を加えて鰒に忌刀を入れ、天照大神に供える。
御贄調舎の前に蕃塀が建っている。正殿を直視できないようにとか、不浄なものの侵入を防ぐとか、目的は不明だが起源は古代に遡り、明治初期に再興された。ここでは参道の左に正宮があるのに蕃塀が参道の右側にあるのは理解できない。蕃塀の先の参道は進入禁止になっていて、外宮のように古殿地から正宮の中を覗くことはできない。

さて、いよいよ正宮の外玉垣南御門を見上げる石段の下まで来たが、撮影が許されるのはこの石段下までである。石段を上がると鳥居の付いた板垣南御門があり、その内側に外玉垣御門、内玉垣南御門、蕃垣御門、瑞牆南御門と五重の垣と門に囲まれている。一般の参拝者は外玉垣御門の前で参拝するだけで、白い絹でできた御幌(みとばり)が下がっていて何も見えない。厳粛さを演出しているのだろうけれども、明治からの国家神道の名残を未だに残している訳なので、一般庶民としては大変不愉快極まりない。寛政9年(1797)の『伊勢参宮名所図会』では、東西の宝殿が正殿と横並びで、玉串御門(現在の内玉垣南御門)まで参拝できたのが、明治2年の式年遷宮ではその外側に板垣と外玉垣が巡らされた。明治22年式年遷宮では宝殿が正殿の後方に移っている。つまり、正殿及び祭神の天照大神を相対化するものを排除し、内宮の神聖性を強調した。五重の垣と門は、参拝者の差別化を端的に示している。維新直後から僧侶も被差別の人々も外国人も参拝可能となったが、明治22年の参拝規定では、天皇だけが正殿階段下まで進め、皇族は内玉垣御門下、貴衆両院議長や有爵者は内玉垣御門外、貴衆両院議員は手前の中重鳥居際、町村長などはもう一つ手前の外玉垣南御門内、というように参拝位置が定められた。
各地の主な神社を見て回っている者としては、村の鎮守すなわち産土神を祀ることが神社の原点であり、神社と寺院が日本人の精神の一端を担ってきたのだなという思いを強くしている。ところが明治以降の伊勢神宮の歴史をひもとくと、神宮は近代天皇制と国家神道との負の結びつきを強くしてきた。
伊勢神宮が今後、政治に利用されず、開かれたものとなるためには、政治家の参拝に便宜を図らないこと、参拝者の差別化を廃し、誰でも内玉垣御門の前で正殿を参拝できるようにすべきである。
内宮つまり皇大神宮主祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)であり、三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)を神体とする。相殿神として、左方に天手力男神を祀り、弓を神体とする。右方に万幡豊秋津姫命を祀り、剣を神体とする。
八咫鏡は内宮に保管されているという神体と、その神体を象って作ったという皇居にあるレプリカの二つがある。咫(あた)は円周の単位で約0.8尺であり、径1尺の円周を4咫としていたので、八咫は直径2尺(約46cm)の円鏡を意味する。内宮の八咫鏡は明治初年に明治天皇が天覧した後、内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。しかし、考古学者の原田大六によると、「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい、その時に新たに造り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。

日本書紀』によれば、天照大神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、倭の笠縫邑に移し豊鋤入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大神を祀るための土地を求めて各地を巡った。その経路は『日本書紀』にはあまり記述がないが、鎌倉時代初期とされる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いた時、「この国に留まりたい」という天照大神の神託があり、倭姫命五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮としたのが皇大神宮の始まりであるとされる。
しかし、『古事記』においては天照大御神と統一されているが、『日本書紀』で天照大神の初出は、巻第一神代上第五段の本文である。「伊弉諾尊伊奘冉尊、共に議りて曰はく、『吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下(あめした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ』とのたまふ。是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おおひるめのむち)と号す(まうす)。」に続いて、「一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊(あまてるおおひるめのみこと)といふ。」とある。第五段の一書の1では、伊弉諾尊が左手で白銅鏡(ますみのかがみ)をもったときに大日孁貴が生まれている。また、第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の目を洗った時に天照大神が生まれている。やはり『日本書紀』本文の、日の神=大日孁貴が本命で、天照大神は一書に登場するのみであることが確認できる。延長5年(927)の『延喜式神名帳』は古代の主要神社が名を連ねるが、天照御魂神、天照玉命など「天照(あまてる)」=太陽神を祀る神社が日本各地にかなりあるので、なにも天皇家に限定されるものではなく、直木幸次郎・岡田精司をはじめ、むしろ伊勢にも元々土着の太陽神が祀られていて、後に皇祖神としての性格が与えられたとする説が多いのも頷ける。
なお、天照大神主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神明神社天祖神社は、全国に約5000社あるという。しかし神明が単に神という意味もあるため、明治時代の調査で何の神が祀られているかわからなくなった神社は神明神社にされたともいわれる。
正宮の正殿の後ろには、東宝殿と西宝殿が並んでいる。正殿は、檜の素木を用いた平入の唯一神明造で、正面3間、側面2間、高床の切妻造、屋根は萱葺、柱は掘立柱、屋根の両端には内削(水平切)の千木がそびえ、棟には10本の鰹木が並び、両側面には太い棟持柱を立てて棟木をしっかりと支持している。

これはパンフの切り抜きで、神嘗祭の一場面である。大神に新穀を奉る恒例祭典中の最重要な祭儀である。深夜に二度、由貴大御饌を奉り、翌日正午に奉幣の儀を行い、夕刻からは御神楽を奏す。両正宮に続き全てのお宮お社で行われる。