半坪ビオトープの日記

五重塔、本堂


宝蔵門をくぐって左の浅草寺五重塔は、天慶5年(942)平公雅が本堂と共に建立した。その後数度、倒壊・炎上に遭ったが、その都度再建された。再建前の塔は、慶安元年(1648)の建立で、本堂と同様関東大震災では倒壊しなかったが、東京大空襲で焼失した。現在の塔は昭和48年に再建された鉄筋コンクリート造で、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ5m、塔自体の高さ約48mである。塔の最上層には、スリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置している。

宝蔵門の先にある浅草寺の本堂は、本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649)の再建で国宝だったが、東京大空襲で焼失した。現在の本堂は、昭和33年に再建された鉄筋コンクリート造である。
浅草寺縁起によると、推古天皇36年(628)檜前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労中、観音様を感得した。郷司の土師中知は聖観世音菩薩であることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を寺として生涯礼拝供養した。大化元年(645)勝海上人が観音堂を建立し、本尊を秘仏とした。天安元年(857)慈覚大師円仁が聖観音像を刻し、お前立ちとした。鎌倉時代には将軍の帰依を篤くし、江戸時代には幕府の祈願所と定められ、「浅草観音」の名で広く参詣者を集めるようになった。都内最古の寺であり、元は天台宗だったが、戦後独立し、聖観音宗の総本山となっている。

大提灯は、東京新橋組合により奉納されていて、高さ4.5m、重さが約600kgあるという。

内陣中央には本尊を安置する宮殿(くうでん)があり、内部の前の間にあるお前立ちが特別な日に開帳されるが、奥の間の秘仏本尊が公開されることはない。
宮殿手前左右に脇侍の梵天帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。
正面の額「施無畏」は、享保12年(1727)奉納の深見玄岱筆である。左右の柱には、寛政9年(1797)の筆、野口雪江書の外陣の聯(れん)が掲げられている。

外陣天井中央には川端龍子筆「龍之図」、天井左右には堂本印象筆「天人散華之図」の天井画がある。

宝蔵門の手前右手にいくつもの仏像や小さなお堂などが集まっている。これは久米平内堂という。久米平内は、江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没したという。伝承によると、剣の道にすぐれ、多くの人を殺したので、その罪を償うために日頃修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。それが転じて「文付け」となり、後に恋の仲立ち役の神様として崇拝されたといわれる。

この阿弥陀如来像は、承応3年(1654)に、江戸の人々の願いで造立された。この年初めて浅草寺が御開帳を行い、多くの人で賑わったという。

この金銅座像は、二尊仏という。右は観音菩薩、左は勢至菩薩で、一般には濡れ仏の名で信仰されている。蓮台も含め高さが4.5mある。貞享4年(1687)館林の高瀬善兵衛が建立した。

宝蔵門の左手に浅草不動尊がある。正式には宝光山大行寺という。一番左奥にある金銅製の「なでぼとけ」が人気で、自分の身体の悪い所と同じ所をなでると治るという。