半坪ビオトープの日記


松本駅の西3kmほどの島立地区三ノ宮に、延喜式神名帳にも信濃国三ノ宮と記載されている、沙田(いさごだ)神社がある。

社殿の前には、神楽殿のような御仮殿があり、周囲には四本の御柱が立っている。沙田神社の御柱祭は、仁寿3年(853)に始まり、貞観元年(859)から卯年と酉年に行われるようになり、今のように盛大な祭礼となったのは天正年間(1580頃)からとされている。昔から「人を見るなら諏訪神社、綺羅を見るなら小野神社、支度見るなら沙田神社」といわれるように安曇平でも盛大に行われる祭りの一つとして知られている。

社伝によれば、古来より東筑摩郡鷺沢嶽に鎮座していたが、大化5年(649)信濃国国司が勅命により現在地に勧請したのが始まりという。
延暦24年(805)から大同元年(806)、坂上田村麻呂による有明山の妖賊・八面大王討伐の際に、本社の神力により戦勝祈願が成就したとして社殿が造営された。元享年間(1321-23)の戦火により本殿以外の社殿が焼失したが、深志城(後の松本城)の城主島立右近貞永により再建されている。その後、松本城の裏鬼門除けとして領主によって守られ続けた。

拝殿に掲げられている扁額の文字は、明治時代の総理西園寺公望による。

神明造の本殿の主祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦)で、右相殿に豊玉姫命(神武の祖母神、山幸彦の妻)、左相殿に沙土煮命(すいじにのみこと、神代七代の三代目)を祀る。

社殿の左には、御子安神社などの境内社が並び、右手にも境内社があり、長い覆屋の中には神明社熊野神社秋葉神社などが集められて祀られている。

これは社殿手前左にある蚕玉社(こだましゃ)である。小さな鳥居をくぐり踏み石に沿って左に曲がったところにある小さな社である。昔、養蚕が盛んだった地域では、蚕玉神、蚕神、蚕大神などと書かれた文字碑が多く見かけられる。先ほど見た山辺兎川寺にあった蚕影神社(こかげじんじゃ)も同じで、蠶玉神社も蚕の旧字体を使っている。

この覆屋の中にあるのは御神木である。