半坪ビオトープの日記

小松寺


千倉駅から館山に向い館山市に入る直前に南の山間を進むと、真言宗の壇特山小松寺がある。現在の仁王門と仁王像は、江戸時代末期に川口村(千倉)の名主荒井与平治が寄進したもので、昭和55 年に塗り替えられ、昭和59 年には屋根が改修されている。

仁王像は、平舘村(千倉)の医師で、俳句・絵画・彫刻に巧みな石井宇門が彫ったという。

鐘楼の彫刻は、後藤義光の弟子の後藤義信により彫られた。梵鐘は、応安7年(1374)の鋳造で、住職は越後僧都経秀、勧進僧は沙門大進権律師貞憲。高階家吉と正氏が大檀那となり寄進したとある。製作した鋳物師は山城権守宗光である。県の文化財に指定されている。

小松寺は、養老2年(718)に役小角によって巨松山壇特寺として創建されたとされ、その後、延喜20年(920)に安房守住吉朝臣小松民部正壽により再建され、壇特山巨松寺と改めたという。
当初は天台宗に属し、その後真言宗に改宗された。中世から近世にかけて里見氏や徳川氏から崇敬を受けた。数回火災に遭ったため古文書がなく、本堂の建築時期は不明である。
参道の右側には石塔が二つ並んでいるが、手前の石塔は石造地蔵菩薩座像である。先祖代々の万霊を供養するため当寺43世隆澄が明治14年に建立した。石工は館山町楠見の田原長左衛門である。

本堂向拝虹梁の龍の彫刻には、安政2年(1855)初代後藤義光の門人、三浦郡浦賀の彫工・後藤忠蔵重武の銘があるので、江戸末期の建物と推定されている。

初代後藤義光の龍ほど迫力はないが、それでもかなりの技量が窺える。

本堂にある本尊の木造薬師如来立像は、9世紀の作と考えられる県内屈指の古像で、県の文化財に指定されているが、秘仏で非公開である。瀬戸浜で漁網にかかった海中出現の像だといわれている。
鎌倉時代初期の作である銅造十一面観音座像は、国の重文に指定され、東京国立博物館に保管されている。平安時代作のお前立薬師如来立像や聖観音菩薩座像、鎌倉時代作の役行者半跏像も含めた仏像と思われる写真が、本堂内右上に掲げられていた。

須弥壇上に並ぶ、木造不動明王立像・木造毘沙門天立像も平安時代の作品であるが、よく見えないのが残念である。手前に並ぶのは十二神将であろう。

本堂手前右側に建つ大きな石塔は、嘉永6年(1853)に建立された光明真言供養塔である。本願主は当寺42世信澄、大貫の村中が願主であり、石工は館山町の田原長左衛門である。

供養塔の右に進むと観音堂が建っている。安房国札26番の札所で、聖観音菩薩像が安置されている。

向拝虹梁の彫刻の銘は読めないが、明治時代初期の神仏分離令以後に、千倉町牧田の下立松原神社から移築された堂だと伝えられている。虹梁の龍とその下の松の枝葉もかなりの技量が窺える。