那古寺縁起によると、養老元年(717)元正天皇の御悩平癒のため、僧行基が老翁の告げにより、ここの海中より香木を得て千手像を刻み、祈念したところ直ちに効験あり、勅願によって山上に伽藍が建てられたとある。参道の正面には、朱塗り本瓦葺の本堂が八間の奥行きも堂々とその側面を現している。妻飾りには朱色の邪鬼の彫物が施されている。
那古寺は、源頼朝が本尊の千手観音に帰依して七堂伽藍を建立したといわれ、かつては足利氏や里見氏、徳川家の信仰も集めたという。
数段の石段を上り左に回ると、大きな向拝を突き出した 観音堂の正面に出る。観音堂は、間口5間、奥行5間のいわゆる五間堂で、円柱の柱を立てているが、床下は八角に面取りされている。
「圓通閣」という扁額がかかっている本堂でもある観音堂は、元禄16年(1703)の大地震で那古寺の堂塔全てが倒壊した後、享保17年(1732)に再建された。
向拝天井には、彩色豊かな牡丹の花の手挟みが目立っている。
堂内は撮影禁止なので遠くから覗いてみると、龍の欄間彫刻がわずかに垣間見られた。作者は不明だが、宝暦9年(1759)に江戸蔵前の札差大口屋平兵衛や那古の釜屋太左衛門等によって奉納されている。見えないがその上にある蟇股の彫刻は、安房の名工・後藤義光の師匠である、江戸神田の彫刻師・後藤茂右衛門正紀が享保16年(1731)に制作した彫刻である。
本尊の千手観音立像は、高さ1.5mの一木造りの木像で、平安時代後期の藤原仏である。堂内には他にも銅造千手観音立像がある。像高104.8cmで、鎌倉時代の作であり、国の重文に指定されている。
観音堂の左手の大きな断崖の下にいくつか御堂が建っている。一番手前左側は、大黒天を祀る大黒堂で、昭和15 年の額がかけられている。階段を挟んで右には、屋根の付いた白衣観音と、地蔵菩薩像が立っている。階段の突き当たりは岩船地蔵堂で、その左に竜王堂が建っている。
岩船地蔵堂には、舟型石に乗った地蔵菩薩が祀られ、小さな石の舟型品が50個ほど奉納されている。新造船や安全祈願や船酔い止めなど漁師の信仰がある。
その左手の竜王堂は、仏法を守護する竜王を祀っている。行基の由緒伝承にも龍神の話がでているが、水との関連から竜王には海上守護の信仰がある。ここには幕末まで真言密教の教主である大日如来を祀る大日堂があったという。
大黒堂のずっと左手に日枝神社がある。神仏分離までは山王権現という境内鎮守堂であったが、現在は寺の管理ではない。
那古寺北側に位置する川名区の鎮守日枝神社が那古寺の鬼門守護と伝えられており、その別当は那古寺衆分の長勝寺が勤めている。境内にあるこの日枝神社は裏鬼門を守護するという。
これで、2月下旬に房総半島南部、南房総市から鴨川市にかけて出かけた史跡巡りを終える。