半坪ビオトープの日記

山口市、龍蔵寺


井上公園から西へ5kmほど入った吉敷の山間に、真言宗の古刹・龍蔵寺がある。七福神とか握手地蔵とかの先、鐘楼堂の手前に芭蕉の句碑が立っている。芭蕉が訪れたわけではなく、吉敷毛利家老の家臣たちが建立したものである。「ほろほろと山ぶき散るや滝の音」

石段の参道を上っていくと、正面に大きな楼門が構えている。ここで拝観料を払う。

楼門をくぐってなおも上がると観音堂に着く。寺伝によると龍蔵寺の創建は、文武2年(698)役小角が豊後の英彦山から飛来し、岩窟に熊野権現を勧請して秘法の護摩供を厳修したという。その後、天平13年(741)行基がこの霊窟に留錫し、草庵を結び自ら千手観音を謹刻し「龍蔵寺」と称したという。この千手観音、一説に琳聖太子百済より請来したものを大内氏30代義興が寄進した俗に言う大唐仏とも伝える。他に合祀仏も多く、いずれも鎌倉期の秀作であり大内文化の栄華の光芒を見る。観音堂の本尊は馬頭観音で、堂内には伝・雪舟筆の駒つなぎの絵馬額があり、他にも雪舟派4世・雲谷等顔筆と伝える33頭の大絵馬もあったというが、今は宝物殿に収められている。

観音堂のすぐ左手前に銀杏の巨樹が聳えている。根元の周囲12.7m、目通り6m、樹高約45m、推定樹齢約900年とされ、国の天然記念物に指定されている。秋の紅葉時には黄色に色づいて遠くからも望見できるという。

観音堂の左手に中国四大聖地仏堂がある。山西省五台山(文殊菩薩)、浙江省普陀山観音菩薩)、四川省峨嵋山(普賢菩薩)、安徽省九華山地蔵菩薩)の聖地で製作・開眼した仏像を招来して祀ってある。その向こうには宝物殿があり、国重文の木造大日如来坐像・四天王図鎗金扉、県文化財の木造千手観音菩薩坐像などが収蔵されているという。

観音堂の右手を進むと左の山から3段の滝が流れ落ちている。中段がくびれて形が鼓に見え、落ちる水音が鼓を打つ音に似るため「鼓の滝」と呼ばれる。3段で37m、山口三名滝の一つという。滝の右側の大岩は、800年前に人の手で置かれたものという。

滝の前をさらに右手に進むと、高さ10mの大聖青不動明王が立っている。この青不動は、三大不動明王(赤不動・青不動・黄不動)霊場設立と、山口県十八不動三十六童子霊場設立のために奉納されたものである。

不動明王の手前を下ると護摩堂があり、さらにその下に本堂が建っている。

本堂の本尊は、当山で最も古い阿弥陀如来である。山口を大内弘世が開府した時、山口の街を守るため東西南北にお寺を建て、それぞれの守り本尊を置いたといわれる。当山はちょうど西にあたるため、西方浄土の仏(阿弥陀如来)を安置したそうだ。本尊の向かって左には厨子付の木造釈迦如来像がある。毛利本家の念持仏で江戸時代前期の製作とされる。龍蔵寺は古くから大内家の加護を受け、江戸時代には毛利家新家山口毛利秀鉋の祈祷寺であり、禄58石をもらっていたが、その念持仏は昭和に入って龍蔵寺に安置されたものである。

本堂へ至る道にチシャ(萵苣)の木の橋が架かっている。昔、ここの住職が切った大木を二本置いていたところ芽が出て木となり、根がつながり二本が橋の欄干になったという。チシャの木はエゴノキとも呼ばれ、よくしなるので昔は魚屋の天秤棒に使われた。夏に白い花が咲き、黄色い実がたくさんなる。

帰りがけ、参道脇に古い石幢を見かけた。六地蔵が彫刻された、室町時代以前の六角柱石幢である。