半坪ビオトープの日記

高手観音堂、薬師堂


平の高房からさらに山奥へ平家狩人村に向かって進むと、左手に三十三観世音堂があり、高手観音堂ともいう。当地の地名は湯西川の高手といい、大永年間(1521~27)の古文書には高出村との記録もある。氏子は高手と花輪の集落13世帯である。

観音堂に安置されている棟札に、弘治3年(1557)本惣戒師釈迦牟尼如来三十三体観音細色大本願蔵助とあり、開基の年代が分かる。また、仏所は遠く九州筑前の国、冷泉、博多、津の住僧一傳の花押があり、筑前守、対馬守、越後守、出雲守等から仏心一体ずつ寄進を受け、仏師・国次により三十三観音霊場巡りが当地でできるように安置されたと考えられている。
その後、延宝7年(1679)に補修を、正徳3年(1713)に改築を、安永7年(1778)に修復拡張し、籠り堂として建立して現在に至っている。この時の氏子は21人だった。

祀られている仏像は、釈迦牟尼如来帝釈天王、弥勒菩薩、大梵天王、普賢菩薩、観世音菩薩など三十三体の観音様と薬師瑠璃光如来、虫歯地蔵尊などであり、立像及び座像の台座付木造の仏像で、いずれも栗山村の材木であるイチイの木で造られている。

中は暗くてよく見えないので、入口脇に三十五体の観音像の写真が掲げられている。

昔、ここでお品加助悲恋の情死事件があった。天保10年(1839)、封建時代の家族制度で跡取り同士の男女、お品と加助がこの観音堂に参り、この世で添えぬ恋仲を、来世は二世も三世もと観音様に最後のお祈りを捧げ、親に先立つ不孝の罪を許し給えと、お堂の中で悲恋の心中を遂げたそうだ。この事件を当時の村人達は、口説き節にして口ずさんでいたという。そのお品加助悲恋の石碑が、右手前にある石碑である。

観音堂から湯西川温泉街に向かって下り、平家の里に立ち寄るため沢口橋で湯西川を渡ってすぐ右手奥に、沢口薬師堂がひっそりと建っている。目に傷を負った平家の落ち武者がお参りを続けたところ、たちまちよくなったという伝説が残っているという。

お堂の中は暗くてよく見えない。民宿やま久の山口久吉氏のふるさと探訪によると、古文書に、沢口の薬師、弘仁十年(821)弘法大師の自作とあるそうだ。また、お堂の中には、寄木造りの薬師瑠璃光如来座像と棟札があるという。棟札には、文化四丁卯歳、弘法大師作とあるそうだ。

薬師堂の右脇には、苔むした石仏や石塔が無造作にかき集められて並べられている。