半坪ビオトープの日記

湯田温泉、錦川通り


井上公園から東に100mほど行くと、中也の生家跡地に中原中也記念館が建っている。館内には、中也の草稿・日記・書簡・愛用品等の資料が展示されている。中庭や入口へのアプローチなどにも中也の詩の一節を展示したり解説したりしている。

中也記念館のすぐ近くに、松田屋ホテルがある。松田屋は延宝3年(1675)の創業。万延元年(1860)設置の御影石の浴槽は、幕末の長州、薩摩、土佐の勤皇の志士、高杉晋作木戸孝允西郷隆盛大久保利通・伊東博文・山県有朋井上馨坂本竜馬らや、七卿落の公卿三条実美らがしばしば会合して、倒幕の密議をした時に入浴使用されたという。高杉晋作憂国の所感を刻んだ楓の幹や、西郷・大久保・木戸の会見所など、幕末・維新の歴史的文化財が残されている。

湯の町街道(県道204号線)の一本北の道・錦川通りから東に折れて、中原中也記念館に続く細い道は山頭火通りという。種田山頭火が湯田前町竜泉寺上隣の風来居という庵に住んでいた時、湯田温泉の千人風呂に通っていたので山頭火通りと名付けられた。現在のホテル松政が千人風呂の跡地である。山頭火通りの入り口にあるマンホールの蓋には、赤提灯と三日月とともに粋な句が書かれている。「しぐれへ 三日月へ 酒買ひに行く」
正面の錦川通り沿いには、湯田温泉生まれの中也の詩碑や山頭火の句碑などが設けられていて、この辺りが湯田温泉街の散策コースの一つとして親しまれている。

錦川通りを北に進むと左側に中原中也の詩碑がある。中原中也は、明治40年(1907)湯田温泉で医院を開業していた中原謙助・フクの長男として生まれ、昭和4年(1929)に河上徹太郎ら友人たちと同人誌「白痴群」を創刊。昭和9年(1934)には第一詩集「山羊の歌」を出版し、詩壇に認められる。フランス詩の翻訳も手がけるなど広く活躍したが、わずか30歳で短い生涯を閉じた。その後、第二詩集「在りし日の歌」も刊行され、多くの人々に愛されている。

中原中也詩碑の文字は、中也自筆の原稿を写したもので、「小唄二編」として発表された詩である。のちに「童謡」となり、小学校の国語の本にも採用された有名な作品である。
「しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る。 こころよ 起きよ 目を覚ませ。 しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る。 象の目玉の 汽笛鳴る。」

中也詩碑のすぐ先に、山頭火の句碑がある。酒と旅、そして温泉を愛した俳人種田山頭火湯田温泉にゆかりがある。東隣の防府市で生まれた山頭火は、昭和7年(1932)から5年間、小郡の「其中庵(ごちゅうあん)」に住んでいた時に12kmの道を歩いて湯田温泉に通っていたといわれる。その後、昭和13年(1938)には湯田前町竜泉寺の上隣に住み、小郡・湯田の時代に湯田温泉のことを多く詠んだという。

この句碑に刻まれた作品は、ユーモラスにあふれたものとして親しまれている。碑文の文字は、山頭火の日記から写して刻まれている。
「ちんぽこも おそそも湧いて あふれる湯」

錦通りには、史跡・瓦屋跡がある。瓦屋は、幕末から明治初期にかけて、木戸孝允ら維新の志士たちが利用した宿だった。吉田松陰松下村塾で学び、後に「日本の小ナポレオン」と呼ばれ、今の日本大学国学院大学のもととなる学校を創設した山田顕義は、長州藩士山田七兵衛顕行の長男として萩に生まれたが、顕義の妻はこの瓦屋の娘である。