半坪ビオトープの日記

中尊寺、本堂


薬師堂の隣、本堂の斜め向かいに、方3間宝形造の観音堂が建っている。

観音堂内には、観音菩薩が安置されている。観音様として一般大衆の信仰を最も集めている仏様で、衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくれる。顕れる時多くの姿をとるといわれ、聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音馬頭観音などが知られる。

観音堂の向かい、参道の右側に中尊寺本堂が建っている。入口には山門が建つ。山門は江戸時代初期の創建で、寺伝では伊達騒動で土佐に流された一関藩主伊達兵部宗勝の居館であった一関城より万治2年(1659)に移築されたという。山門は薬医門形式で、左側に脇門があるなど城郭建築の一端を見ることができる。

中尊寺の鐘楼としては、大日堂と阿弥陀堂の間に、康永2年(1343)に鋳造された古い鐘があるが使われていない。現在中尊寺で正午の時を知らせるのは、本堂境内にあるこの鐘楼の鐘である。

中尊寺は、寺伝によると、嘉祥3年(850)円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。資料的に確かめられてはいないので、実質的には、長治2年(1105)奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが中尊寺の創建と見られている。
本堂は中尊寺山内にある多数の寺院(最盛期は寺塔40余り、禅房300余りとされ、現在は17寺院)の中心となる根本道場で、その規模も最大である。奥州藤原氏が滅ぶと次第に勢いもなくなり、建武4年(1337)には火災により多くの堂宇とともに本堂も焼失した。現在の本堂は、明治42年(1909)に再建されたものである。

本堂内に安置されている本尊の丈六釈迦如来座像は、平成25年に新たに安置されている。像高2.7mで、台座・光背を含めると5mにもなる。本尊の両脇にある灯籠は、比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」である。

藤原四衡の御月忌、天台宗の祖師忌、法華経一日頓写経会など、法要儀式祭事のほとんどが、この本堂で執り行われる。

一つの部屋に金澤翔子の屏風に書かれた書が奉納されていた。東京都出身の金澤翔子は、ダウン症の天才書家として注目されていて、中尊寺で昨年個展を開いた。これはその時の作品の一つである。