恵隆寺は、伝承によれば、欽明天皇元年(540)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、「会津風土記」(寛文6年〈1666〉成立)によれば、大同3年(808)空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したという。どの伝承も史実とは認められず、創建の経緯は不明である。
寺の縁起によれば、立木観音堂の建立は建久元年(1190)で、その後、慶長16年(1611)の会津地震で大破するが、元和3年(1617)に修築された。その後も江戸時代中期や大正5年(1916)にも修理されている。桁行5間、梁間4間の寄棟造で、屋根は茅葺である。
鎌倉時代の特色を備える純粋な和様古建築で、国の重文に指定されている。中央に1間の向拝を付け、低い雨落葛石を回しただけの地盤上に建てられ、四周には廻縁を巡らし、母屋は全て円柱、縁長押、腰貫、頭貫を渡してある。軒先を隅に軽く反らせて、屋根棟には会津地方特有の茅葺棟飾りがある。
この観音堂の建て方は、先ず千手観音像を造った後に堂を建てている。観音像の大きさや仏像の多さに対して堂がたいへん小さく、観音像の頭上はすぐ天上になっている。観音像が余りにも大きいので厨子や宮殿の中に祀って扉をつけることができず、その代わりに斗帳という大きな垂れ幕を掛けている。
拝観料を払うと斗帳を開けてくれるが、堂内は撮影禁止なので、残念だがパンフの切り抜きを載せる。立木観音堂の本尊である十一面立木千手観音立像は、像高8.5mの一木彫の木像で、今でも床下に根のある日本最大級の千手観音である。伝承では、弘法大師(徳一)が夢のお告げを受け、桂の大樹に一刀三礼の精魂込めて彫り上げたという。
本尊の千手観音像の左右には、室町時代の作と推定されている、像高約2mの眷属の二十八部衆の仏像と、その奥に風神像と雷神像が立っている。30体の眷属が揃っているのは、京都の三十三間堂とこの立木観音堂だけともいわれる。千手観音像は国の重文に、二十八部衆と風神・雷神像は県の重文に指定されている。
「塔寺の立木観音」の名で親しまれているが、会津ころり三観音の一つでもあり、多くの参拝客が訪れる。苦と死への恐怖を和らげるために、櫛やブラシ、黒髪の奉納が多く、堂内にある「だきつき柱」に抱きついて心願すれば、満願成就すると信仰されている。
観音堂の右手奥に本堂が建っている。恵隆寺の年表によると、平成9年菩提寺本堂建立、本尊大日如来修復、とあるのがこれにあたると思われる。
本堂の中には、金ぴかの大日如来が安置されている。その右手に、慈光院という一区画がある。中には多くの位牌らしきものと、やはり仏像が安置されているように見受けられる。
「会津坂下町史」では、大同年間(806-809)に慧日寺の徳一によって高寺山は再興され、恵隆寺を中心に36坊があって多くの修行僧が生活していたと記す。塔寺には慈光坊があって、後に慈光院弥勒山清水寺と名称を変え、また、この地には黄金をちりばめた塔があり小金塔村とも称したという。恵隆寺が建久元年(1190)に現在地に移転してきた時、ここには旧慈光院弥勒山清水寺があったというが、そのことと関係があるのかもしれない。
恵隆寺境内の右側に、旧五十嵐家住宅がある。「内うまや」という形の、江戸時代中期、会津平坦部の中堅層農家(本百姓)の家構えであり、梁束に享保14年(1729)の墨書が発見された。
桁行8間半、梁間3間半、寄棟造、茅葺で、床面積は117.19㎡である。土台がなく、丸石の上に直接柱が立てられている。正面向って左寄りに「とんぼぐち」がある。
屋内左手1/3が土間で「にわ」と「うまや」が、右手は床が土座の「おめぇ」と呼ばれる「なかのま」と板敷きの「ざしき」、「へや」がある。どの部屋にも天井がないなど、古い様式が残っているので、国の重文に指定されている。