半坪ビオトープの日記

石堂寺、本堂


2月下旬に房総半島南部、南房総市から鴨川市の史跡巡りに出かけた。南房総市の中心の千倉から10kmほど北の小高い丘の上に、南房総最古の寺といわれる天台宗長安山東光院石堂寺がある。駐車場の北には白梅を中心に100本ほどの梅の木が植えられ、その先に花観音と旧尾形家住宅がある。

旧尾形家住宅は、江戸時代の貴重な農家住宅で、昭和46年にこの地に移築された時に墨書が見つかり、享保13年(1728)に建築されたことが分かった。尾形家は名主を務めた旧家である。建物は分棟型と呼ばれる形式で、居間・座敷などの主屋とかまどや作業場となる土間が棟を別に建てられている。納戸が大きいために居間がL字型になるという、千葉県では珍しい形で、国の重文に指定されている。

駐車場から南に参道を進むと、右手の低い境内に本堂や多宝塔が見え、左手の高い石垣の上に薬師堂が認められる。寄棟造3間四方茅葺の薬師堂は、安土桃山時代天正3年(1575)の建立であるが、昭和46 年にやや北の石堂原から移築されたものである。平安時代薬師如来南北朝時代毘沙門天を祀っている。国の重文に指定されている。

石堂寺は、寺伝では、和銅元年(708)奈良の僧恵命・東照が創った草庵が発祥といわれ、その後神亀3年(726)に行基が開いたとされる。古くはインドのマウリヤ朝3代アショーカ王の塔があったので石塔寺と呼ばれたという。近江国の阿育王山や上野国群馬県)の白雲山の石塔寺とともに、日本三塔寺として知られる。戦国時代に小弓公方足利義明の孫である頼氏が養育された寺で、頼氏の幼名である石堂丸にちなんで寺名が付けられたともいわれる。
仁寿元年(851)慈覚大師が荒廃した寺院を見て嘆き、前立十一面観音、千手観音、薬師如来各像を彫刻し、堂宇を造営して天台宗延暦寺末になったという。

鎌倉時代には隆盛を極めたが、長享元年(1487)全山が焼失し、大永5年(1525)に地域の支配者であった丸氏一族の援助により現在地に再建された。
禅宗様を基調とする本堂は、中の厨子に永正10年(1513)とあることからその時代の建築と考えられている。屋根は寄棟造で、昭和41年に茅葺を銅板葺きに改修した。県内に現存する最大規模の古建築といわれ、国の重文に指定されている。

本堂向拝の虹梁上の龍の彫刻は、初代武志伊八郎信由、通称・波の伊八の作である。

堂内には本尊の木造十一面観音立像があり、平安時代の作といわれるが、細かい金網が張られて保護されているので確認できない。

寺務所で買い求めた絵はがきの切り抜きを載せる。十一面観音立像は、像高180cmの榧の一木造で、国の重文に指定されている。