半坪ビオトープの日記

長谷寺


芦安から南アルプス街道を南下し、甲府盆地に出て信玄堤の手前南に、真言宗智山派長谷寺がある。

八田村から旧白根村にかけての一帯には、平安時代後期以降、八田牧といわれる広大な牧が展開していた。当初は大和国長谷寺に倣って豊山長谷寺と名付けられたが、この土地が八田牧(後の八田荘)になったことから、山号は八田山と改称され現在に至っている。

ちょっと小振りだが厳つい形相をした仁王像が、仏敵が寺院内に入り込むことを防いでいる。

甲斐国社記・寺記」によれば、天平年間(729-49)に行基甲斐国の治水事業のためこの地を訪れた際、自彫の十一面観音菩薩を安置し、大和国長谷寺を模して創建したという。
本堂は観音堂とも称する。単層入母屋造、檜皮葺き形の銅板葺、方3間。正面3間に両折桟唐戸を立て、両側面は3間のうち前寄りの1間のみ舞良戸とする。四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、1間の向拝を付す。本堂は、解体修理の際の墨書により、大永4年(1524)に再興されたことがわかった。

本堂内部は中央の方1間に四天柱を立て内陣とし、来迎壁の前に禅宗様の須弥壇を構え、上に厨子を置く。厨子は入母屋造妻入板葺きで、室町時代の作である。
本尊の木造十一面観音菩薩立像は本堂厨子内に安置され、「原七郷の守り観音」として古くから篤く信仰されてきた。原七郷は御勅使川扇状地にあるため、旱魃に悩まされてきた地域で、湧水点にあたる長谷寺では古くから雨乞いの祈祷が行われてきた。十一面観音像は33年に一度開帳されるだけの秘仏であり、本堂前に写真付の案内板がある。像高169.3cm、桂材の一木造で、長身ですんなりとした姿をしている。行基作と伝わるが、実際の造立は平安時代と推定されている。本堂も厨子も国の重文に指定されている。

本堂右手には鐘楼が建っているが、造りは簡素である。

鐘楼の奥に、門と塀に囲まれた別の寺院らしきものがあり、その門前に大きな梵鐘が安置されている。

塀の中を覗いてみるとやはり本堂のような建物が見えるが、梵鐘も建物も詳細はわからない。