半坪ビオトープの日記

石堂寺、多宝塔


本堂の手前に建つ多宝塔は、天文14年(1545)に丸常綱の寄進によって建立されたもので、里見義堯(よしたか)が、天文の内訌で滅ぼした里見義豊らの供養のため、建立したとも考えられている。江戸時代以前の多宝塔は関東に少なく、国の重文に指定されている。様式は上層唐様の折衷様式である。

堂内須弥壇上には、鎌倉時代中期の慶派の造像とみられる木造千手観世音菩薩座像が安置されているが、まだ開帳の前だったので見られなかった。

こちらも買い求めた絵はがきを載せる。像高1m、漆箔、玉眼で、檜材の寄木造。頭上に化仏と十一面を現し、四十二手、二重円光を光背とし蓮華座上に結跏趺坐する。意志的な眼差しをもつ引き締まった面貌は、県内鎌倉彫刻を代表する名作とされる。

多宝塔の壁面に掲げられていた彫刻16面は、波雲に海馬、亀、鶴、唐獅子や、火炎に龍、松に鶴など、現在は、客殿内に安置されている。客殿の欄間透し彫りとともに、寛政3年(1791)初代波の伊八39歳の作である。

本堂の正面に建つ鐘楼堂は、桁行3間、梁間2間、天明3年(1783)の建立という。梵鐘は、元徳3年(1331)に初鋳されたものを、寛文3年(1663)に再鋳した。

鐘楼堂の右奥にある山王堂は、石堂寺の鎮守として、延暦寺鎮守の滋賀県日吉神社を勧請して祀ってきたもので、古くから山王社と呼ばれた。3間社流造で、中世末期の装飾様式が随所に見られるため、室町時代末期から桃山時代の建築と推定されている。三つある蟇股の彩色彫刻が興味深い。県の文化財に指定されている。

山王堂の右隣には、小さな白木の社が三つ、覆い屋根の下に祀られているが、詳細は分からない。

さらに右手奥に閻魔堂が建っている。室町時代の弘治2年(1556)時の住職宗憲によって造像された閻魔大王と西国33観音の霊像写しを安置している。観音堂とも呼ぶ。
閻魔堂の手前には青銅製の宝篋印塔が立っている。天保13年(1841)に丸本郷の伊藤治兵衛が大施主となり、石神村の冶工鈴木伝左衛門正尹により鋳造された。

閻魔堂の中を覗くと閻魔大王などの十王の他にも色々と納められていた。