半坪ビオトープの日記

竹林寺


高知城から南に向かえば桂浜に行けるが、東に向かって五台山竹林寺に寄り道した。竹林寺真言宗智山派の寺院で、正式には五台山金色院竹林寺という。駐車場から裏門を通ると客殿に出る。客殿は藩主参詣の際の接待用の御殿といわれ、入母屋造の母屋、切妻造の玄関、唐破風の車寄からなり、母屋と玄関は享保20年(1735)の建立で、車寄は文化13年(1816)の建立である。文保2年(1318)夢窓疎石の作と伝わる池泉鑑賞式庭園もあるが、時間の都合で省略した。

客殿の手前を左に進むと、大日如来坐像などが安置されている宝物殿があり、その次に鐘楼が建っている。梵鐘は総高78cm、口径46cm、鋳造は弘安7年(1284)である。

鐘楼の向かいには、木々に囲まれて虚空蔵菩薩堂が建っている。

その先に本来の入り口である重厚な仁王門が建っている。入母屋造の二層楼門で、左右に金剛力士像を安置している。

仁王門をくぐるとすぐ右手に日吉神社が祀られている。江戸時代末までは神仏混合だったのでその名残であるが、日吉神社天台宗に縁があるので、昔は天台宗だったのかもしれない。廃仏毀釈竹林寺が荒廃した後は、船岡芳信という人が再興したという。

竹林寺神亀元年(724)聖武天皇の勅願を奉じた行基により、唐の五台山になぞらえ、行基自ら謹刻した文殊菩薩像を本尊として開創されたと伝えられている。大同年間(806~809)に弘法大師が四国回国のみぎり、当山に錫を留めて修行され、その由緒をもって後に四国霊場第31番札所に定められた。江戸時代には土佐代々藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として寺運は隆盛。堂塔は土佐随一の荘厳を誇り、学侶が雲集し、学山として宗教・文化の中心を担った。文殊菩薩を本尊に祀ることから文殊堂とも呼ばれる本堂は、寛永22年(1644)土佐2代藩主山内忠義により造営された。当山に現存する最古の建造物で、国の重文に指定されている。一層入母屋造、5間四方杮葺、室町時代様式で、唐様の軒反りや放射状の扇垂木など密教寺院独特の様式を随所に見ることができる。

本尊の文殊菩薩は、京都・切戸の文殊、奈良・安倍の文殊とともに「日本三文殊」の一つに数えられ、日本に現存する文殊五尊像の中で最古の作例といわれる。

竹林寺には古くは三重塔があったが、明治32年の台風により倒壊した。昭和55年、高さ31m、総檜造、鎌倉時代初期の様式をもつ五重塔として復興された。

五重塔内には、インド・ブッタガヤより勧請された仏舎利を納め、初層内陣には大日如来を祀っている。

本堂の左手には稲荷社が祀られ、その左に小さな淡島神社と子安地蔵堂が建っている。

本堂に向かい合った参道の左手、五重塔の下に弘法大師を祀る大師堂が建っている。寛永21年(1644)土佐2代藩主山内忠義により建立された。
さて、この竹林寺で有名な話といえば、「よさこい節」に出てくるかんざしを買った純信という名のお坊さんの話である。この寺の脇坊妙高寺の純信と五台山下いかけ屋の娘お馬は、安政2年(1855)に駆け落ちをしたが讃岐で捕まり、純信は追放されて伊予川之江寺子屋の師匠になり、お馬は須崎の庄屋お預けの身から、大工寺崎米之助と結婚したという。