半坪ビオトープの日記

坂本龍馬記念館


竹林寺の後、急いで桂浜に向かったが、GWのため既に大渋滞で近づくことができなかった。それでもようやく桂浜手前の坂本龍馬記念館には滑り込むことができた。平成3年に桂浜裏手の丘陵上に開館した、幕末の志士・坂本龍馬をテーマにした博物館で、海援隊約規や龍馬の手紙などが展示されている。

坂本龍馬が幕末史上で果たした役割は大きいが、その期間は勝海舟に弟子入りしてから京都の近江屋で暗殺されるまでの5年間と意外なほど短い。文久2年(1862)28歳で土佐藩を脱藩した龍馬は長州藩に行き、その後江戸へ出て幕府の軍艦奉行並である勝海舟の弟子となる。元治元年(1864)には勝の使者として西郷隆盛と面会した。京都池田屋の変で新撰組近藤勇らに尊王攘夷の志士らは一掃され、龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩の庇護の下、長崎で亀山社中という海運業の商社を作った。龍馬はこの組織を使って、慶応2年(1866)1月には薩長同盟を成功させたが、幕府から危険人物としてマークされた。同盟成立2日後に伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所の役人に踏み込まれた。しかし、寺田屋で働いていたお龍(りょう)の機転と長府藩士・三吉慎蔵に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。

龍馬は薩摩藩邸でお龍に看護を受け、その後お龍と結婚し、西郷隆盛小松帯刀の勧めもあって薩摩の霧島山に傷の保養を兼ねた新婚旅行に出かけた。お龍は京都の医者・楢崎将作の長女に生まれたが、父の死後は貧しくなった。大坂に女郎として売られた次女を短刀を忍ばせて助けに行った気丈な話もある。いろいろな言い伝えがあるが、美人という評価は一致している。

慶応2年7月には第二次長州征伐が起こり、亀山社中長州藩を助けるため薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。また龍馬は蝦夷の開拓や島根県沖の竹島の開拓を考えたり、11月には薩長合弁商社設立を画策したりした。その龍馬に目をつけたのが土佐藩だった。薩長に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3年1月、当時土佐藩政の実権を握っていた参政・後藤象二郎と龍馬を長崎で会談させた。龍馬は後藤と手を結び土佐藩に復帰した。これで亀山社中海援隊と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊長に就任した。海援隊士には、紀州藩脱藩者でのちに外務大臣になった陸奥宗光がいる。
これが龍馬の原点ともいえる海援隊約規の複製である。

同年6月頃からは薩長が武力討幕を考え始めたが、土佐藩は武力討幕を避ける策を龍馬に求めた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還を盛り込んだ8つの策を提案した。船中八策である。後藤はこれを前土佐藩山内容堂に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。龍馬はその1ヶ月後の11月15日、33歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺された。暗殺の実行犯は見廻組説が有力だが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎である。これが血の跡が残る屏風の複製である。

龍馬は幅広い人脈を持ち、数多く手紙を残しているが、龍馬が最も慕っていた3歳年上の姉・坂本乙女宛ての手紙が特に多い。これが文久3年(1863)の通称「エヘンの手紙」の複製である。

これは慶応3年(1867)4月、脱藩を許され喜ぶ、乙女宛ての手紙の複製である。

これは近年発見された、後藤象二郎宛ての手紙の実物である。

交通規制されている桂浜は諦めて、黒潮ラインを南に向かったが、すぐに振り返って見た。後で調べてみたら、桂浜は龍馬記念館駐車場から歩いて10分ほど下ったところにあった。

これから向かう足摺岬は、この黒潮ラインから南西へ100km以上も離れているので先を急いだ。