半坪ビオトープの日記

松尾のアコウ、ジョン万次郎資料館


足摺岬から万次郎の生家が復元された中浜に向かってすぐにある、小さな松尾漁港に下る細い道の脇に松尾天満宮がある。間口9m、奥行6mの拝殿を廻り舞台にして利用している。天満宮の由緒等は不詳だが、現存の廻り舞台は、明治30年(1897)頃に建築されたという。拝殿の前の境内が観客席となって、演じられる地芝居を見て楽しんだと思われる。

舞台は拝殿の中に、直径5mの円形の床を掘り抜き、床下の心棒に固定し、心棒に腕木を差し入れて、人力によって廻転するようになっている。松尾浦は黒潮が洗う臼碆沖の漁場に近くカツオ漁で栄えたところであり、経済的に豊かだったため他所ではあまり見られない廻り舞台が造られた。藩政時代の土佐藩では一般に遊芸は法度として禁じられていたが、農漁村では豊年祭などの名目で地芝居や地狂言が行われていた。維新後にこの禁令が解かれると、各地でそれらを演じる舞台が造られるようになった。

松尾天満宮のすぐ裏手に、「松尾のアコウの自生地」として国の天然記念物に指定されているクワ科のアコウの巨木が生えている。3株のアコウの内最も大きい株は、目通り周囲9m、高さ25m、樹齢約300年で、数十本の枝を四方に張り、東西10m、南北6mに広がる。他の株はイスノキなどの幹に着生して、多くの気根が寄主の樹幹を覆ってしまっている。幹と見えるものは多数の気根の集束したもので、土佐のアコウの特性をよく示す標本とされる。

土佐清水市役所から西へ、竜串へ向かうとすぐの海沿いに、ジョン万次郎資料館がある。万次郎の波乱の生涯を紹介する施設で、万次郎直筆の英文字や、万次郎とホイットフィールド船長の絵などの資料を展示している。

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827)に土佐清水の中浜で貧しい漁師の次男として生まれた。平成22年に中浜地区に復元生家が完成し、屋内見学も可能となっている。これはその模型である。

9才で父を亡くした万次郎は幼い頃から働いていたが、14才の時、仲間と漁に出て遭難した。数日漂流した後、太平洋の無人島「鳥島」に漂着し、143日後にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に助けられた。船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろした。万次郎はそのまま船に残り、日本人として初めてアメリカ本土へと足を踏み入れた。

アメリカに渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州で共に暮らし、学校で英語・測量・航海術・造船技術などを学んだ。卒業後は数年捕鯨船に乗り、帰国を決意した後、カリフォルニアの金鉱で得た資金で船を購入し、日本に帰国した。嘉永4年(1851)薩摩藩領の琉球に上陸した万次郎は、番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩長崎奉行所などで長期にわたり尋問を受けた。

帰国の2年後に戻った土佐藩で尋問に立ち会った絵師・河田小龍がまとめた「漂巽紀略全4冊」は、土佐藩主・山内容堂にも献上され、多くの写本が作られた。それは坂本龍馬など幕末の志士たちも目にしたと考えられている。

万次郎は土佐藩校教授となり、後藤象二郎岩崎弥太郎の指導を受けた後、幕府に招聘され江戸へ行き直参旗本になる。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮と精力的に働いた後、万延元年(1860)日米修好条約批准書交換のため幕府が派遣した海外使節団の一人として咸臨丸に乗り込んだ。

咸臨丸には、艦長の勝海舟福沢諭吉らも乗っていた。その後も捕鯨活動、海外渡航などめまぐるしく働き、明治3年(1870)普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣され、ニューヨークに滞在した時にマサチューセッツに足を運んで恩人のホイットフィールドに約20年振りに再会した。しかし帰国後万次郎は病に倒れ、静かに暮らしたのち、明治31年(1898)に71才でその生涯を閉じた。