半坪ビオトープの日記

気比神社


三沢市の南にあるおいらせ町北部に気比神社がある。朱色の両部鳥居の先には大きな拝殿が構えている。

この周辺には江戸時代、盛岡南部藩最大の藩営牧場である木崎野牧が置かれており、気比神社は馬を祀る神社として古くから広い崇敬を集めてきた。千鳥破風に軒唐破風が付いた拝殿は非常に大きく、3間の向拝もかなり大きく重厚である。現在の社殿は明治13年(1880)に再建されたものである。気比神社の祭神は、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと、第14代仲哀天皇)だが、縁起は不詳である。天文2年(1533)に縁起を焼失したとも、あるいは文明9年(1477)の創祀ともいわれる。社伝によると、第82代後鳥羽天皇の時代、源頼朝が奥州征伐の際、陸奥国に広々とした馬の生産地が開けているのに着眼、牧場経営のため加賀美次郎遠光の三男・南部三郎光行を派遣し南部馬の生産を奨励した。爾来、馬の生産が盛んとなり、五穀豊穣・大漁成就・家畜安全等を願い、建久2年(1191)甲斐国の加賀美次郎遠光をして、越前国一宮で北陸道総鎮守として名高い気比神宮の祭神・足仲彦尊を勧請したという。

3間の向拝を貫く二重虹梁には簡素な唐草模様の彫刻があしらわれているが、二重虹梁を支える形の蟇股や、その上の大瓶束および猪目懸魚は重厚な造りである。

拝殿内は近年改修したらしく真新しいが、以前には「木崎野馬護祠記」という扁額が掲げられていたそうだ。天明8年(1788)の奉納額を寛政10年(1798)に模したもので、それによると木崎野牧が寛永16年(1639)に藩営とされた際、馬祖を崇める堂宇が建立されたとあり、この頃が当社の本格的な創建と考えられている。本尊は烏帽子・直垂の馬上の尊像で、明治維新後に郷社となり、気比神社と改称された。明治初期の神仏分離前には、木崎野馬護神・木下蒼前堂・正善堂・馬頭観音などと呼ばれていた。

拝殿の裏に続く本殿も真新しく、近年改修されたようだ。

拝殿の右手には志乃武神社が建っている。志乃武神社は、旧日本海軍により、天照皇大神宮鹿島神宮香取神宮から旧三沢基地に勧請され、終戦後、当社に納められた。

その後、航空自衛隊三沢基地の航空安全を願う守護神として、小さな社殿が建てられ祀られている。

朱色の鳥居をくぐったすぐ右手、小さな社に欅驄ぜん神が祀られている(「ぜん」の漢字は馬偏に前)。昔、ここに大人10人ほどで抱えた欅の巨木があり、「おそうぜんさまの欅」と呼ばれて神木とされていたが、度々の台風で倒木の恐れが生じ伐採された。その切り株上に社を建てて祀っている。

鳥居の内側の境内には、文久2年(1862)の銘がある古い石灯籠が2基建てられている。

拝殿の左手には山登(やまあげ)神社が建っている。通称はヤマカケ神社という。社殿内に立つ三つの石に祭神の名が彫られている。左の石には春日神社・天照皇大神八幡神、中の石には湯殿山神社月山神社羽黒山神社・十和田山神社、右の石には幸比羅神社とある。古より当地方では八甲田大岳登山信仰が盛んで、毎年時期になると若者たちが早朝、気比神社と山登神社に参拝して出発した。帰還後は無事登山のお礼をして、草履を欅の枝に投げ掛けてから解散したという。

山登神社の左手前に、絵馬殿が建っている。

絵馬殿の中には、多種多様な馬の絵が描かれた奉納絵馬が隙間なくビッシリと掲げられていた。