半坪ビオトープの日記

金剛福寺


足摺岬には真言宗の蹉跎山補陀落(ふだらく)院金剛福寺が建っている。山号の文字・蹉跎とは、食い違いを直し、正しい方向に導くとの意味である。しかし、「蹉」も「跎」も一字ではともに「躓く(つまずく)」の意味で、この地が難所であったことを示している。ただし、山門手前の石柱や寺号標には、通称の足摺山と記されていて、珍しく山号が二つあることになっている。

山門には「補陀落東門」と書かれた扁額が掛かっている。補陀落東門とは、観音菩薩が住むという補陀落浄土の山がインドの遥か東方海上にあるとされ、ここ金剛福寺がその東門に当たるという意味である。山門の仁王は暗くて見えにくいが、近づくと真っ赤な顔でたいへんユーモラスな格好をしている。

山門をくぐると正面奥に本堂が建っている。本堂前の池の手前には、奉納された所願成就の大きな亀の像が安置されている。

金剛福寺足摺岬の突端にあり、境内12万㎡の大道場である。寺伝によれば、弘仁13年(822)に嵯峨天皇から「補陀落東門」の勅額を受けた空海が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し、金剛福寺と名付けて開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵(金剛杵)は、足摺岬に飛来したといわれる。歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。

鎌倉時代後期には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、一人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んであった。江戸時代に入ると、土佐藩2代藩主山内忠義が再興し寺運は隆盛した。本尊は千手観世音菩薩。三面千手観世音菩薩立像は、本面の左右に脇面が付き、高さ約1.6mの檜材寄木造り。正月三が日に開帳される。

本堂のすぐ右には、不動堂が建っている。

不動堂の右には、多宝塔が建っている。当初は清和天皇の供養のため多田満仲が建立したが、現在の多宝塔は明治13年に再建された、高さ19m、方3間の多宝塔で、本尊として大日如来を祀っている。多宝塔の先には和泉式部の逆修塔がある。和泉式部の黒髪を埋めたといわれる高さ1.65mの宝篋印塔で、鎌倉時代の作である。

本堂左手前にある池を左手に進むと、愛染堂が建っている。愛染堂にある愛染明王像は平安末期のもので、奈良の興福寺から一条家鎌倉時代に奉納した。脇には象頭人身の聖天像が祀られている。

愛染堂の左手には、権現堂が建っている。熊野三社権現が祀られている。

権現堂の左手には行者堂があり、その先を右に曲がると奥に大師堂が建っている。見えるのは右側面である。左に回り込んで大師堂に入れば、大師像が拝観できる。

本堂左手前にある池を左回りに一周して大師堂から本堂前に戻ったところで振り返ってみると、朱色の六角堂の先に2層の鐘楼堂が認められる。