半坪ビオトープの日記

常念寺


むつ市役所の2kmほど東、明神川の小橋を渡った所に、浄土宗の常念寺の山門が建っている。平成元年に新築された八脚門である。

山門には「不退山」の山号額が掲げられ、その先に本堂が構えているのが見える。左の金剛力士は開口の阿形像である。

右手の金剛力士は口を結んだ吽形像で宝棒を持つ。どちらもいかつい顔をして睨みを利かせている。

常念寺は慶長元年(1596)の創建で、開山は磐城国専称寺8世良翁龍山という。田名部館の一角に置かれ、田名部代官所が新設される寛文年間(1661~73)まで御官所として使用された。
本堂に安置されている本尊は、木造阿弥陀如来坐像で、平安時代後期の作と考えられている。像高は87.2cm、檜の寄木造による定朝様式で、下北地方唯一の国の重文に指定されている。常念寺が明暦年間(1655~58)の田名部大火で焼けた後、貞享3年(1686)4代住持良法月西と檀家総代が上京して、浄土宗四本山の一つである清浄華院に参詣した際、恵心院僧都源信により製作されたという阿弥陀仏を譲り受け、敦賀湊から船で運んだという。
本堂正面の虹梁は3間もあり、木鼻の獅子の彫刻4体は精巧に仕上げられており、たいへん迫力がある。本堂は昭和45年に建てられている。

山門をくぐって境内内側から振り返ると、山門の左側には鐘楼堂が建っている。

山門の右手には、昭和59年に建てられた万人堂が見える。

田名部三十三観音の三番札所の万人堂には、観音像が安置されている。円空の下北での足跡は、田名部の熊谷家「家譜」の中の「万人堂縁起」に記されている。円空は熊谷家に滞留して仏像一体を造り、拠金を募って安置する万人堂を建立したと書かれている。

万人堂は、かつては田名部川ほとりの小川町の慈眼寺にあったが、明治初期に発令された神仏分離令廃仏毀釈により廃寺となったため、常念寺境内に遷された。聖観音像を納めてある厨子の扉の内側には、千手観音と聖観音が獄彩色豊かに描かれている。

二十四番札所の如意輪観音坐像(川端観音堂)は、弘法大師の作と伝えられ、元禄13年(1700)当時、田名部川で河童が頻繁に出没し子供に嫌がらせをしたため、子供を守るように地元の菊池伝蔵が寄付したとあり、現在は子授けの観音としても信仰されている。正面の立像が聖観音像であり、如意輪観音坐像はとても小さく、本堂に安置されているという。