半坪ビオトープの日記

百済寺、本堂


歴史を感じさせる石垣参道に合流し、古い石畳を踏みしめながら上っていくと、仁王門が見えてくる。旧本坊喜見院跡が参道の右手にある。参道両側にはかつては約300坊あったという僧坊跡が残されているが、こうした広い百済寺境内は、国の史跡に指定されている。

仁王門は、本堂と同じく慶安3年(1650)の再建である。よく見かけるように、ここにも大草鞋がかけてある。五木寛之が百寺巡礼で参拝した時、この大草履に触れて願掛けしたという。門を潜る時に、珍しく門の内側に向き合っている仁王像に出会う。

仁王門の先、右手に小さな弁天堂が建っている。近年、突風で倒れた杉のために倒壊したのを再建したばかりで新しい。

百済寺の記録類は、度重なる火災でほとんど焼失したとされるが、それでも百済寺では次のように説明している。百済から派遣された高句麗僧恵慈とともに湖東の地に来た聖徳太子八日市の町で投宿していると、東の山中に毎夜、瑞光が見られたので傍の恵慈に尋ねたところ、翌朝、恵慈は太子を案内し東方の深山に分け入ると、上半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木が立ち、その周りに一群の猿が木の実を供えている光景に出会った。太子が不思議に思い恵慈に尋ねたところ、この杉の上半分の幹は百済に運ばれて「龍雲寺」の本尊十一面観世音菩薩像になっていることがわかった。そこで太子は、これは願ってもない素晴らしい「御衣木(みそぎ)」を得たとばかりに根の付いたままの下半分の幹に十一面観世音菩薩像を彫り始めた。その第一刀の入刀日が推古天皇14年(606)10月21日と記録されているという。

したがって百済の龍雲寺と湖東の百済寺の本尊は、同じ木から彫られた観世音菩薩ということになる。百済寺の本尊は、別名「植木観音」と呼ばれるのも、太子が根の付いたままの幹に観音を彫ったことに由来するそうだ。

前述の通り、天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭って全山焼失している。その後、天正12年に堀秀政により仮本堂が建立された。寛永年間には天海僧正の高弟・亮算が入寺し、寛永14年(1637)堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、慶安3年(1650)現在の本堂・仁王門・山門等が再建された。

かつての本堂は現在より少し山手の広大な台地に、金堂と五重塔があった。旧本堂跡には現本堂の約4倍の7間4面2層の本堂があったといわれ、奈良時代作の総高3.2mの本尊が安置されていたという。

現在の本堂は、一重桁行5間梁間6間、桧皮葺の入母屋造で、正面中央に軒唐破風が付けられ、国の重文に指定されている。外陣と内陣とに引違い格子戸を用い、内陣の厨子には平安時代作とされる総高2.6mの本尊・木造十一面観世音立像が安置されているが、もちろん秘仏である。内陣向かって左手前には、明応8年(1499)作の寄木造如意輪観音半跏像が安置されている。
ほかにも百済寺には、鎌倉時代作とされる阿弥陀如来坐像、奈良時代作とされる金銅弥勒半跏思惟像、木造聖観音坐像など寺宝がたくさんあるが、ここではほとんど見ることができない。

本堂脇に小さな三社権現が祀られている。本堂と同時期の再建で、熊野三社の主祭神を祀っている。

本堂の左手に鐘楼が建っている。現在の梵鐘は3代目で、昭和30年(1955)の鋳造である。初代は信長焼き討ちの際に持ち帰られ、江戸時代鋳造の2代目は戦争で供出している。

本堂の左脇に千年菩提樹がある。樹齢約1000年とされ、織田信長の焼き討ちで幹まで損傷したが、奇跡的に幹の周囲から蘇った木であるという。