湖東三山の西明寺、金剛輪寺は、歴史を感じさせる庭園もあり、本堂内の仏像も見応えあったが、参道が長くて境内も広く、湿気も多くてとても疲れた。予定していた最後の百済寺は諦めて、後日、帰りがけ最後に参観したが、ここに続けて紹介しておく。
湖東三山のうち、最も南に位置する釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)は、最盛時には300坊を数え、僧俗1000人を超える人々が住したというほど広大な境内の中にあるので、駐車場は赤門ではなく、表参道中央より上の本坊の下にある。
本坊の右手にある門が表門で、その右手に赤門から上がってくる長い石垣参道があるのだが、最初に参観する庭園は本坊の裏手にある。
本坊の喜見院は、かつては仁王門下の右方にあったが、昭和15年(1940)に現在地に移転した。百済寺は、平安時代から中世にかけてかなりの規模をもった寺院だったようだが、文永11年(1274)に大火、明応7年(1498)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503)の兵火でも焼け、創建以来の建物だけでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼失した。さらに天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力を持っていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。
寺伝によれば百済寺は、推古天皇14年(606)聖徳太子の発願により、高句麗僧恵慈を導師に百済僧道欣が創建したという。百済の龍雲寺を模して建てられたので百済寺と号したという。ちなみに、百済という国名が史料上に現れるのは4世紀の近肖古王からであり、『三国史記(1143執筆)』では紀元前18年の建国となっているが定かではなく、通説では『三国志』の中の伯済国が前身だと考えられている。しかし、発音は渡来人においては「くだら」ではなく、「はくさい」と推定されるので、創建以来「ひゃくさいじ」と呼ばれてきたというのは間違いないだろう。
百済寺の史料上の初見は寛治3年(1089)であるが、古代より湖東一帯には渡来人が多く定住していたので、渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院になっている。
本坊の喜見院が移転改築されたことに伴い、庭園も旧本坊のものを拡張改造されている。庭内には中世の石造品の残欠も多く見られるという。
東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉回遊式ならびに観賞式庭園である。
これらの巨石は旧本坊庭園や山内の谷川から集められ、弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見立てて組み合わされている。池畔の平らな拝み石、渓流の源をなす不動石は、鈴鹿山脈の借景と見事に調和している。
庭園から一段上がったところにある展望台からは、眼下に湖東平野、また遠く西方には比叡山や湖西の山々を望むことができ、「天下遠望の名園」と称されている。
とはいえ遠くは霞んでいて、天下遠望の図と照らし合わせても、姿形から八日市の太郎坊くらいしか確認できない。ちなみに、この太郎坊、比叡山の延長線上に、次郎坊(鞍馬山)があり、さらにこの北緯35度線を西に伸ばすと、昔の百済国の光州あたりに行き着くので、百済寺では「百済望郷線」と呼んでいるそうだ。