半坪ビオトープの日記

永源寺、山門


西明寺金剛輪寺百済寺の湖東三山は、関西屈指の紅葉の名所としても知られるが、三山の南に位置する永源寺も近江随一の美しさと称される紅葉のトンネルが有名で、合わせて紅葉の時期には大勢の参拝客で賑わう。永源寺は愛知(えち)川(音無川)右岸にあり、愛知川に架かる旦度橋を渡り、さらに右手奥の幡桃渓から流れ来る川に架かる大歇橋(だいけつきょう)を渡る。

120段あるという石段の羅漢坂を進むと、参道脇に大きな宝篋印塔が立っている。

参道の左側は古めかしい石垣が連なり、地蔵菩薩だろうか小さな石仏がいくつも並んでいる。

さらに参道を上がっていくと、左の岩山の上の方に釈迦三尊の石仏が並び、それらを取り巻くように十六羅漢の石仏が配されている。

それぞれ違ったユニークな表情をしているが、制作年代や作者は不明で、おそらく歴代の住持が祈念して彫ったものだろうといわれている。

石段を上りきるとやがて総門が見えてくるが、その手前左側に、芭蕉の門弟・森川許六の大きな句碑がある。許六は、近江・彦根藩藩士で、蕉門十哲の一人である。
「白雲に迄も染入る紅葉かな」

そこで左に分岐する道があり、少し上ると右手に、宝篋印塔と小さな石仏、石塔がある。

道の突き当たりには、井伊家の墓所がある。譜代筆頭の大名だった彦根藩主井伊家の4代直興は、永源寺の南嶺慧詢に帰依していたため、側室とともに歴代藩主とは別に永源寺に埋葬された。井伊直興は領内に玄宮園を造り、松原港・長曾根港を改築するなど土木事業に熱心で、元禄10年(1697)には大老となった。彦根藩主井伊家墓所は、彦根市清涼寺・東京都世田谷区豪徳寺にもあるが一括して国の史跡に指定されている。

臨済宗永源寺派大本山の瑞石山永源寺は、康安元年(1361)に近江の領主佐々木(六角)氏頼が、中国で臨済禅を学び帰国していた寂室元光禅師の高徳に帰依し、愛知川上流の景勝地に伽藍を創建し、禅師を迎えて開山された。
寂室の徳を偲んで集まった雲水は2000人を超えたという。室町幕府足利義満も寂室禅師を崇信し、永源寺祈願寺とした。しばしば兵火にかかって衰微したが、東福門院徳川和子)が願主となり、寛永20年に(1643)一糸文守(仏頂国師)を招いて再興してから昔日の盛観を取り戻した。その後も失火で伽藍を焼失したが、彦根藩主井伊家が復興に尽力し、現存建物の多くを再建した。
永源寺の総門は、寺内で最も古く、寛正5年(1464)の再建である。四脚門で、門の両側に土塀をつけている。

総門の先には大きな山門が建っている。この門は丹崖周桂禅師が山門がないのを嘆き、享和2年(1802)に完成された。入母屋造桟瓦葺、5間3戸の2階二重門で、重厚な雰囲気を醸し出している。楼上には釈迦牟尼仏文殊菩薩普賢菩薩十六羅漢像が奉安されているが、非公開である。平成10年に大改修された。

現在の鐘楼は安永元年(1772)の再建である。梵鐘は戦争時に供出したが、昭和23年(1948)再鋳された。