半坪ビオトープの日記

三井寺、金堂


琵琶湖を見下ろす園城寺は、古くから日本四箇大寺(東大寺延暦寺興福寺園城寺)の一つに数えられ、延暦寺を総本山とする天台宗山門派とは別れている、天台寺門宗の総本山である。山号は長等山で、一般には三井寺と呼ばれている。
一般に仁王門と呼ばれる大門は、入母屋造の楼門で、もと近江甲賀常楽寺にあった門を慶長6年(1601)徳川家康が寄進したものである。墨書銘から宝徳3年(1451)の建立とされる。

仁王門をくぐってすぐ右手に釈迦堂が建っている。桁行7間、梁間4間、一重入母屋造桧皮葺、唐破風向拝付で、室町時代初期の建築とされる。中世寺院の食堂(じきどう)建築の遺構として国の重文に指定されている。内部の須弥壇には、本尊として清涼寺式釈迦如来造を安置している。

釈迦堂の左手前に苔むした小さな弁財天社がある。駒札によると、天和3年(1683)建立とある。

仁王門からまっすぐの参道先にある石段の上の高台に、三井寺の総本堂・金堂の東側面が見える。桁行7間、梁間7間、一重入母屋造桧皮葺、桃山時代を代表する名建築として、国宝に指定されている。

三井寺の起源は次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが生前にその志を果たせなかった。子の大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため25歳で没した。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子と敵対していた天武天皇は朱鳥元年(686)寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。なお、三井寺の通称は、この寺に沸く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井(みい)」の寺といわれたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺に創建時に遡る遺物はほとんど残っていないが、金堂付近から奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承もある程度史実を反映したものとされる。

貞観元年(859)智証大師円珍は、三井寺初代長吏に就任し、貞観10年(868)天台座主に就任する。円珍没後、比叡山円珍派と慈覚大師円仁派とに別れて抗争し、円珍派は三井寺に移った。比叡山衆徒の三井寺焼き討ちは、大小50回にも及んだという。平安時代には藤原道長白河上皇らが深く帰依し、源頼朝室町幕府からも保護を受けた。しかし文禄4年(1595)秀吉の怒りに触れ、事実上の廃寺を命じられ、金堂は比叡山に移され延暦寺に現存している。その後、慶長4年(1599)豊臣秀吉正室北政所により金堂ほかが再建され、現在の寺観がほぼ整えられた。
内部は外陣・中陣・後陣に別れ、中陣は内陣の両側に脇陣を設ける。土間のままの内陣のほかは全て板敷で、伝統的な天台系本堂の形式をよく伝える。本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰していた念持仏とされ、秘仏として安置されているというが、公開されたことがなく写真も存在しないので、いかなる像か不明とされる。

金堂の右手奥に教待和尚の像を安置する教待堂が建っている。教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で、大師を迎えるとともに石窟に入り姿を隠したという。後に大師はその石窟上に一宇を建て廟とした。

金堂の右手前、南東に巨大な梵鐘を吊る鐘楼が建っている。桁行1間、梁間2間、一重切妻造桧皮葺、慶長7年(1602)の再建で、国の重文に指定されている。同年鋳造の梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られる。乳の数が108個あり、百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品とされる。宇治の平等院、高雄の神護寺とともに日本三名鐘に数えられ、荘厳な音色は親しまれている。

金堂の左(西)に金堂に接して、閼伽井屋が建っている。桁行3間、梁間2間、一重向唐破風造桧皮葺、慶長5年(1600)の建立で、国の重文に指定されている。

閼伽井屋内部には、三井寺の名前の由来となった三井の霊泉が湧いている。

閼伽井屋正面上部の蟇股には、左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。