半坪ビオトープの日記

金剛輪寺、本堂、三重塔


本堂まで続く長い参道の脇には「千体地蔵」と呼ばれる小さな地蔵菩薩が無数に並んでいる。それぞれの地蔵菩薩には家々の名前が書かれており、その数は2000体を越えるともいわれる。よく見かける水子供養に限らず、家内安全とか学業成就など思いは多様であるという。参道だけでは収まらないのか、参道の左手にまとめられている所もあった。時折風が吹いて一斉に風車が鳴り出すと、なんとも不気味である。

雨上がりの蒸し蒸しする中、延々と数百メートルも続く参道を、車で上がればよかったと後悔しながら進んだ先に、ようやく二天門が見えてきた。

大きなわらじが下げられている二天門は、様式上は室町時代前期の建築で、国の重文に指定されている。寺伝では元来は2階建ての楼門だったが2階部分が失われたという。屋根は入母屋造桧皮葺だが、屋根材は江戸時代のもので、当初からこの形式であったかどうかは不明とされる。

二天門を潜ると大悲閣・本堂が建っている。入母屋造桧皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。桁行、梁間とも7間で、須弥壇の金具に弘安11年(1288)の銘があるが、本堂の建築様式・技法から南北朝時代の建立とされ、前述の金具は前身堂のものと見られている。正面柱間すべてが蔀戸なのは和様の特色だが、内部の組物の挙鼻などに禅宗様の要素が見られる。秘仏の本尊である聖観音立像を安置する厨子も入母屋造桧皮葺で、本堂附として国宝である。
寺伝によれば金剛輪寺は、天平9年(737)または天平13年(741)行基による開創と伝わる。その後、嘉承年間(848~51)には天台宗の円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では中興の祖としている。伝承を裏付ける資料はないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。天正元年(1573)織田信長の兵火で百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、本坊からはるか上にある現存の本堂や三重塔は寺僧の尽力で焼失を免れたという。

本堂内には多くの仏像があるが、撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。本堂内陣須弥壇の左側に安置されている木造漆箔の阿弥陀如来坐像は、像内背面に墨書があり、貞応元年(1222)から嘉禄2年(1226)にかけて播磨出身の慶西を願主に、近江国講師経円が制作した旨が記されている。頭体幹部は左肩以下の上膊を含んで檜の一材からなる。右の脇侍・持国天像と左の脇侍・増長天像も含めて国の重文に指定されている。持国天像の足枘には建暦二年(1212)の銘がある。

須弥壇右手にある毘沙門天立像は、足枘に建暦元年(1211)の銘があり、重文に指定されている。

本堂後陣の厨子内には、十一面観世音立像が安置されている。平安時代後期の作とされ、重文に指定されている。ほかにも建暦元年(1211)の銘がある不動明王立像、正応元年(1288)の銘がある慈恵大師坐像などが重文に指定されている。

本堂の脇に鐘楼が建ち、梵鐘が吊るされている。この梵鐘には、乾元2年(1303)の銘があり、河内国の鋳物師・河内助安に鋳造されたことも刻まれている。

本堂の左(北)の一段高い所に、三重塔(待龍塔)が建っている。寺伝では寛元4年(1246)の建立というが、様式的には南北朝時代の建築と見られ、国の重文に指定されている。織田信長の焼き討ちは免れたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部と組物がかろうじて残るのみで、三重目は無くなっていた。昭和53年(1978)に修理復元された。

総高は22.15m、屋根は桧皮葺。二層部、組物は三手先、軒は二軒繁垂木、初層の軒反りも美しい。台座には高欄のない広い縁を巡らし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。内部には四天柱があり、大日如来を安置している。

上りは汗だくで苦労したが、帰り道は足早に下る。参道途中に豆の木茶屋があるが、その手前に「一富士・二鷹・三茄」の門前庭があった。その奥には小さな稲荷社もある。