半坪ビオトープの日記

西明寺、本堂


湖東三山は、琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西山腹に位置する、西明寺金剛輪寺百済寺の三つの天台宗寺院の総称である。百済寺の南東に位置する永源寺とともに紅葉の名所として知られている。惣門の南を左に折れ、名神高速を越えて坂を上り、長い参道の途中にある庭園近くの駐車場から庭園受付門を入る。参道の左側には、樹齢250年といわれる不断桜があり、9月から翌春まで咲き続け、紅葉と桜を同時に見ることもできるという。

庭園は西明寺本坊の庭園で、園内には石屋弥陀六の作と伝えられる灯篭などもあり、国指定の名勝庭園となっている。石屋弥陀六とは、一の谷の合戦の話に出てくる。熊谷直実上皇落胤である平敦盛を犠牲にしたくない義経の心を察し、我が子小次郎の首を身代わりとして差し出した。それを知った梶原景高が鎌倉の頼朝に密告しようとしたのを石鑿で絶命させ阻止した。その石鑿は弥陀六が投げたものだった。そして灯篭は、身代わりとなった小次郎の菩提を弔うために、敦盛が弥陀六に作らせたものという。その灯篭は見過ごしてしまったが、その灯篭の形を模した土製の鈴が「身代わり鈴」として本堂で売られている。

延宝元年(1673)望月越中守友閑が当山復興の記念として、小堀遠州の庭を手本にして作庭したといわれる池泉回遊式蓬莱庭園である。斜面に配された石組みは、薬師如来をあらわす立石、日光・月光菩薩十二神将など雲上の諸仏にみたて、曼荼羅図を表しているとされる。

山の斜面を巧みに利用し、枯滝を中心に刈り込みや心字池を配し、池の中には折り鶴の鶴島や亀島がみごとな調和を見せている。

庭園の左奥から、苔が密生した緑の絨毯の中の坂道を上っていく。

境内左手の細い道を上っていくと、小さな龍神社がある。龍応山西明寺は境内の西側に大池があることから池寺とも呼ばれ、山号にも龍があることから、かなり昔から水神あるいは龍神を祀っていたと思われる。

龍神社のすぐ先には、稲荷大明神が祀られていた。

庭園から上がってきた道は、正面の参道とは違って二天門は潜らずに、本堂の左手に出る。大きな本堂の右手奥には三重塔が建っている。
西明寺の寺伝によれば、承和元年(834)に仁明天皇の勅願により、三修上人(慈照)が開創したという。三修上人は、修験道の霊山として知られる伊吹山の開山上人と伝えられる半ば伝説化した行者である。伝承によると、琵琶湖の西岸にいた三修上人は湖の対岸の山に紫雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に湖面を飛び越え対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修上人がその池に祈念すると薬師如来の像が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺の始まりという。西明寺の寺号は伝承にある紫の光が西の方へさしていたことによる。

上述の開創を立証する資料はないが、平安時代から室町時代にかけて修行・祈願の道場として栄え、山内には17の堂塔と300を数える僧房をもち、寺領は2000石に及んだという。しかし、元亀2年(1571)比叡山延暦寺織田信長に抵抗したため焼き討ちにあった後、西明寺も信長配下の丹羽長秀によって焼かれた。本堂・三重塔・二天門のみ兵火を免れて残ったが、衰微の一途をたどった。徳川家などの庇護を受け徐々に復興し、近代に至っている。

七間四面の入母屋造・桧皮葺、鎌倉時代前期の和様建築である本堂(瑠璃殿)は、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。外陣の蔀戸、側面の板扉、折上格天井、外陣と内陣境の吹寄菱格子欄間・吹寄格子戸は、純和風様式の建造物として貴重なものとされる。

内陣中央の厨子には本尊の木造薬師如来立像(鎌倉時代、国重文、秘仏)を安置し、両脇侍に木造日光・月光菩薩立像(鎌倉時代)、周囲に十二神将立像(伝・運慶の弟子作)、二天王立像(平安時代、重文)が立つ。解体修理の結果、建立当初は五間堂であり、南北朝時代に拡張したとわかった。後陣つまり裏堂にも、木造不動明王・二童子像(平安時代、重文)や木造釈迦如来立像(鎌倉時代、重文)、親鸞上人座像(鎌倉時代)など多数の仏像があって圧倒されるが、撮影禁止であるため、釈迦如来立像のパンフの切り抜きを載せる。案内人の説明によると、この寺でも昨年落書き事件があったので、目の届かない裏堂の仏像参観は、残念ながら、近々禁止されるかもしれないという。