半坪ビオトープの日記

放光寺

放光寺 仁王門
甲州市円山藤木の恵林寺の少し北に、真言宗智山派に属する古刹、放光寺がある。山号は高橋山(こうきょうざん)。元暦元年(1184源平合戦で功績を立てた安田義定一ノ谷の戦いの戦勝を祈念して創建したという。仁王門は天正年間(1573-92)に再建されている。

仁王門の金剛力士
仁王門に安置されている金剛力士像は、放光寺が創建された鎌倉時代の元暦元年頃の造立で、大仏師・成朝の作と考えられている。木造・檜材の寄木造になる像高約263cmの立像で、国の重要文化財に指定されている。

サザンカ
境内には三百株のアジサイをはじめ、梅、椿、花桃、山吹、牡丹、レンギョウ、花菖蒲、萩、金木犀など四季折々の花が楽しめる、花の寺としても知られる。仁王門の脇で色鮮やかに咲き誇るのはサザンカであろう。

阿字門
仁王門から阿字門までの参道脇には牡丹や梅などの花木がたくさん植えられている。阿字門の先には本堂が垣間見られる。

放光寺本堂
放光寺本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造、銅板葺(元は茅葺)で、禅宗の方丈型である。『甲斐国志』によれば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠)が本拠とし、寿永3年(1184)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。建久2年(1191)に義定が寄進した梵鐘銘によれば「法光寺」表記であり、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548)の寺領証文である。『甲斐国志』によれば、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、その時放光寺本堂も焼失している。本堂の左手には愛染堂がある。

本堂
その後、寛文年間(1661-73)に柳沢吉保の援助を受け保田若狭守宗雪により本堂が再建された。本尊は大日如来金剛界の木造大日如来漆箔坐像。像高94.5cm。宝冠を戴き結跏趺坐し智拳印を結ぶ。作風から平安時代末期の円派の作と推定され、造立は創建以前と推定される。その本尊は宝物館に収蔵されている。

本堂内部
本堂の平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西に入側を設けている。南面の中央は板敷、その奥が仏間で、来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されている。

宝物館と毘沙門堂
本堂に向かって左手に五輪塔と宝物館があり、その奥に毘沙門堂が見える。宝物館には本尊の木造大日如来坐像と、同じく平安時代作の木造不動明王立像(149.4c)、木造愛染明王坐像(89.4cm)が収蔵され、ともに国の重要文化財に指定されている。他にも武田氏奉納の大般若経六百巻が収蔵されている。放光寺には嘉永5年(1852)に浄土宗の僧・養鸕徹定(うがいてつじょう)により模写された法隆寺金堂壁画(阿弥陀浄土図模写)が所蔵され、現存最古の模写として注目されている。

愛染堂
本堂のすぐ左に愛染堂があり、そこに安置されている愛染明王も、珍しい天弓愛染明王像である。この愛染堂も天正年間(1573-92)に再建されている。

毘沙門堂と銅鐘
毘沙門堂の軒に吊るされている銅鐘は、鎌倉時代の梵鐘で、総高は105cm、口径は56cm。開基にあたる安田遠義定が建久2年(1191)に当初奉納し、その後建治元年(1275)、建武3年(1336)、貞治5年(1366)に改鋳された。県指定の有形文化財である。

天弓愛染明王坐像
宝物館は撮影禁止だが、毘沙門堂には日本最古の天弓愛染明王坐像の写真がある。

常滑大甕
同じく毘沙門堂には、平成6年の発掘で出土した常滑大甕や天目茶碗が展示されている。遺跡は中世の墓跡で、埋葬主体である大甕は13世紀後半だが被葬者は不明という。口径43cm、器高68.8cm、底径19cm。

鎧を着けた毘沙門天
同じく毘沙門堂には、鎧を着けた毘沙門天像が開祖像として安置されている。開祖とされる武将・安田義定の姿とされる。像高147.8cm、平安後期から鎌倉初期とされ、甲州市文化財に指定されている。

安田義定の廟所

本堂の左手、毘沙門堂の裏手に安田義定の廟所がある。寺伝によると、甲斐源氏中核の武将、安田義定は安田義清の四男として生まれ、治承4年、以仁王の令旨を奉じて平家打倒の旗を掲げ、富士川の戦いに大勝し、遠江守護に任ぜられた。元暦元年(1184)源義経の副手として平家追討に向かい、一の谷合戦では範頼・義経と並んで大将として軍功を治めた。建久5年(1194)些細なことから頼朝の勘気を被り、放光寺で自刃した。享年61歳。