半坪ビオトープの日記

満光寺


建福寺から東に300m進むと浄土宗の親縁山満光寺が建っている。古めかしい四脚門の山門の手前、右側には赤い屋根で覆われた小さな秋葉神社が祀られていた。

山門をくぐるとすぐ右手に閻魔堂が建っている。堂の右手前には庚申塔や二十三夜塔が並んでいた。

正面には豪壮な鐘楼門が建っている。明治の大火で本堂始めほとんどの建物が焼失したが、延享元年(1744)に建てられた鐘楼門は難を免れた。間口4間、奥行2間半、入母屋造銅板葺きで、全て科(シナ)材が使われている。2階が鐘撞堂となる八脚楼門形式で、三洲長篠の牛久保流の棟梁・菅沼定次の作である。

禅宗様式を取り入れた張りのある屋根、精巧な枡組、彫刻の技法が巧妙で美しい。かつて鐘楼には松本の鋳物師・田中伝右衛門が鋳造した鐘があったが、戦時供出され石が吊るされた。現在の鐘は、昭和49年に復元されたものである。

鐘楼門を潜って振り返って仰ぎ見ると、左右に配された花頭窓と重厚な屋根が調和して見事な均整がとれている。門の内側右手には、檜水井跡がある。高遠城黄金水、桂泉院の桂水とともに「高遠三名水」といわれた檜水(ひのきすい)の井戸があった場所である。明治の大火の際埋没してしまったが、今でも下に水脈はあるそうだ。

鐘楼門の正面には本堂が建っている。満光寺は京都知恩院の直末寺として、天正元年(1573)浄土宗の高僧だった笈往(ぎゅうおう)上人が開山したと伝えられている。元禄時代になると満光寺は高遠藩主となった内藤家の菩提寺となり、寺運が隆盛となった。元文4年(1739)に再建された本堂は「十二間四面で、鐘楼門ほか仏具まで結構を尽くし、伊那一番の伽藍なり」と遠野藩老の葛上紀流が記したという。科の木を用い、長野の善光寺の伽藍配置にしたことから「伊那善光寺」「信濃の科寺」とも呼ばれた、多くの末寺を有した大寺だったが、明治32年(1899)の火災で本堂始めほとんどの建物が焼失した。

本尊は鎌倉時代の仏師・快慶作と伝わる阿弥陀如来立像である。伊那に流された工藤祐経の子・犬房丸が守本尊として持っていた仏像だという伝承もあるが、ともかく鎌倉時代中期の作と推定されている。

本堂手前右側には、一目見るだけで極楽往生できるといわれる「極楽の松」がある。天正年間(1573~92)武田信玄の弟の信廉が高遠城主であった時、笈往上人と親交があり、信玄の遺命によって、高遠城内の黒松をこの地に自ら移植したという。以来400年間、数度の火災に遭うも常に難を逃れてきたという。

本堂左手から裏手の墓地の一番奥に、ブロック塀で囲まれた高遠城主・内藤家の墓所がある。

案内板がどこにもなく、どれが誰の墓なのかは不明である。

保科左源太の墓もあるというのだが、残念ながらわからなかった。苔むした五輪塔で、高遠にある在銘の墓としては最古(寛永4年)という。左源太は高遠城保科正光の甥で養子となり保科氏を継ぐ予定だったが、2代将軍秀忠の子・幸松丸(後の保科正之)が養子となり後継者となったため、悲運の人生を送った。