半坪ビオトープの日記

蓮華寺


満光寺から北東に300m進むと、日蓮宗の妙法山蓮華寺が建っている。

駐車場左の石段を上り詰めると山門が構えている。1間1戸の四脚門で、屋根は切妻造の本瓦葺である。

開山は身延山5世の鏡円阿闍梨日台上人で、開基は妙顕寺3世の大覚大僧正妙実上人。延文5年(1360)保科正光より高遠城下に寺地と寺領100石を賜り開創され、初めは長遠寺といって藤沢郷北原にあった。現在地に移ったのは慶安4年(1651)。時の城主は鳥居忠春であった。本堂は間口11間、奥行9間で、文化4年(1807)に改築されている。本尊は釈迦如来である。本堂の右に続く庫裏は、安永年間(1772頃)に再建されている。

大きな袴腰付きの鐘楼堂には、ちょっと不釣り合いの小さな梵鐘が吊られている。

観音堂には聖観世音菩薩が祀られている。

本堂後方の墓地を上り詰めたところに、七面堂が建っているが、その手前左手に新しい北辰と書かれた妙見堂が建っている。妙見菩薩信仰は、中国の星宿(北辰=北極星)信仰に道教密教陰陽道などが混交したもので、千葉氏が守護神としたことから日蓮宗寺院に祀られることが多い。

七面堂は、延宝8年(1680)高遠藩主鳥居忠則が4代将軍徳川家綱の位牌堂として建立したもので、蓮華寺では最古の建物である。唐破風の向拝が大き過ぎるのが気にかかる。

後に鳥居氏が改易になると、元禄2年(1689)身延山久遠寺の総鎮守である日蓮宗守護神七面明神を祀ったもので、市の文化財に指定されている。

七面堂の右隣には、女人成仏と記された絵島の像が立っている。大和郡山に生まれた絵島は、元禄16年(1703)23歳で紀州鶴姫に仕え、翌年鶴姫の死去に伴い甲州家宣の愛妾おきよ(月光院)に仕えた。家宣が世継ぎと決まり江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸のお使い番になる。月光院が家継を生み、家宣が6代将軍になると絵島は年寄りとなり、7代家継将軍の時に大年寄りとなって大奥で大きな力を持った。しかし正徳4年(1714)生島新五郎の芝居見物で門限に遅れたことを口実に「江島生島事件」にて大奥大改革の犠牲となり、高遠に流された。寛保元年(1741)61歳で亡くなるまで魚を断つ精進を続け、蓮華寺後丘に埋葬された。
絵島の像のさらに右手に進むと、石の玉垣に囲まれた絵島の墓がある。実際の絵島は、もともとは江島であったが、舟橋聖一の小説「絵島生島」が有名になったため、伊那市でも絵島と表記するようになってしまった。歌舞伎や多くの芝居物では、江島が生島を大奥に連れ込んで情事に及んだことになっているが、それはあくまでも脚色で事実ではないとされている。
浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづかし 絵島

蓮華寺の境内からは高遠の家並みの向こうに、雪を抱いた南アルプスの山並みが見える。

駐車場から見返ると、鐘楼堂の下に日蓮銅像が立っていた。