半坪ビオトープの日記

番神堂、本堂


鎌倉幕府によって佐渡島に流されていた日蓮は、文永11年(1274)恩赦を受け寺泊に向け出発したが、早春の嵐で偶然にも漂着したのがこの柏崎の番神岬であった。漂着地背後の高台には、日蓮ゆかりの番神堂がある。
当時番神堂は、西本町の真言宗妙行寺のお堂であったが、日蓮に深く帰依した住持の慈福が法華宗に改宗し、自らも日心と称して法弟となった。現在は、日蓮宗妙行寺の境外仏堂である。

現在のお堂は、明治4年の大火で焼けた跡、明治11年(1878)に再建されたものである。
「米山さんから雲が出た」と唄われる有名な民謡の三階節に「下宿番神堂がよくできた。向拝の仕掛けは新町宗吉大手柄」とあるように、棟梁4代目篠田宗吉の手による、権現造の傑作である。
向拝虹梁の龍と兎毛通の鳳凰の透し彫りは、躍動感にあふれ見事な出来映えである。

堂内正面には、佐渡海峡で激浪に翻弄される日蓮聖人の絵額が奉納されている。
また左の長押には、日蓮の生涯を描いた絵額がいくつも掲げられている。

内陣入口には、「普益殿」の額が掲げられている。普益殿とは、番神堂の別名である。つまり、古くは八幡神を鎮守とした寺院であり普益堂と称したが、改宗後に番神堂と改称されたそうだ。

内陣最奥には、「普益尊天」の額が掲げられ、三十番神が祀られている。

社殿の右手に続く庫裡玄関屋根の虹梁上の彫刻は何だろうか。虹梁には波が彫られ、その上の浮き彫りの人物と木は日蓮と松の木で、上陸時の姿と思われる。

社殿は、拝殿と本殿の間に石の間が設けられた権現造である。

本殿の三面の壁面には肉厚の板に素晴らしい彫刻が施されている。社殿は彫刻とともに市の指定文化財であり、潮風から守るために保護されているが、よく見えなくて残念である。

波と亀、鳳凰と桐、雲と龍のテーマで彫られたものは桃山時代の特徴が表れ、狩野派最後の一品ともいわれている。

これらの彫刻は、脇野町の池山甚太郎、出雲崎の原篤三郎、直江津の彫富の三彫師が宗吉の仕事に参加することに感謝し技を競ったという。