半坪ビオトープの日記

竹生島、都久夫須麻神社


竹生島は、琵琶湖北部の沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島であり、島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岸壁で囲まれている。針葉樹で覆われた中に寺社が点在する風景の美しさで古来より知られ、琵琶湖八景(1950)に「深緑竹生島の沈影」として選ばれ、国の名勝及び史跡にも指定されている。

竹生島は古来より信仰の対象になった島で、神の住む島ともいわれ、奈良時代行基上人が四天王像を安置したのが始まりと伝わる。島の南部には宝厳寺(ほうごんじ)と都久夫須麻神社(竹生島神社)が祀られている。竹生島は神仏一体の聖地であったが、明治の神仏分離令に際して、弁才天社から竹生島神社に改称した。竹生島弁才天は、江島神社(神奈川県江ノ島)・厳島神社広島県宮島)と並んで日本三大弁天の一つに数えられる。
旧三高(現、京大)の寮歌として知られる「琵琶湖周航の歌」の4番に竹生島が歌われていて、その歌碑が竹生島港に立てられている。

港からすぐ宝厳寺への参道の石段が始まるが、左手の本坊の先の月定院の所で右手に竹生島神社へ参道が別れる。165段あるこの急な石段は、念仏を唱えながら無心に進むためか、祈りの石段とも呼ばれる。

港のすぐ上の崖沿いに架けられた長い橋の参道を進むと、船着場の様子が手に取るように見下ろせる。左手の崖上には修理中の宝厳寺観音堂と舟廊下(渡廊)がある。

橋を渡りきると大木の木陰に黒龍堂がある。黒龍は八大龍王の一尊。龍王は大海に住み雨を降らす神であり、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水を降らせたと伝わる。大木は黒龍が湖より昇ってくると伝えられる神木である。

左に回り込むと招福弁財天が祀られている。ここには三弁天ではなく、五弁天が紹介されていた。曰く、安芸国厳島大神、大和国天川大神、近江国竹生島大神、相模国江島大神、陸前国黄金山大神である。

招福弁財天の先には龍神拝所があり、すぐ脇に白巳大神が祀られている。古来より白蛇は弁財天の使いとされるが、龍神・水神・弁財天にはつきものである。ちなみに白川静によれば、祭祀の「祀」は、巳(蛇)を神として祀ることを意味する字であるという。

龍神拝所には、とぐろを巻いた阿吽の蛇が狛犬のように配され、正面の開口部から琵琶湖が望める。

脇から眼下を眺めると湖岸に面して鳥居が立っている。ここからかわらけ投げが行われる。願いを書いたかわらけが鳥居をくぐれば願いが成就するという。

龍神拝所の反対側には南向きの社殿がある。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。神亀元年(724)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、その神託に従って、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。天平3年(731)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命大己貴命を祀ったといわれ、行基は弁財天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『延喜式神名帳』では「都久夫須麻神社」と記され、祭神は浅井氏の氏神ともいわれる浅井姫命とされる。平安時代には神仏習合が進み、弁財天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁財天社」とも称された。祭神として、市杵島比売命(弁財天、宗像大神)、宇賀福神(龍神)、浅井比売命(産土神)を祀る。
国宝の本殿は永禄元年(1558)に火災で焼失し、永禄10年(1567)に再建されたが、これは現存の庇と向拝にあたる。中心部の身舎(もや)は、慶長7年(1602)に豊臣秀頼が改造したもので他から移築されたものである。桁行5間、梁間4間で、入母屋造、檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇を巡らせている。両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施され、内部の柱・長押等には梨子地で蒔絵が施されている。
本殿に上がる石段の右手には江島大神と厳島大神が祀られ、左手には天忍穂耳神社と大己貴神社が祀られている。

竹生島神社本殿から左に観音堂と連絡する屋根付きの渡廊がある。豊臣秀吉の御座船の用材を使用して建てたという伝承から「船廊下」とも呼ばれる。

船廊下に続く宝厳寺観音堂は、入母屋造檜皮葺。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏・千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。柱などの木部は総漆塗りで、天井には極彩色で菊、桐などの文様が描かれる。観音堂と船廊下は国の重文に指定されている。

観音堂の左(西)には国宝の唐門が付属している。その前方には、港から宝厳寺本堂へ直に上がる石段の参道に合流する参道が水平に伸びている。左手前方には宝厳寺本坊が見える。