半坪ビオトープの日記

建福寺


高遠市街地の中心、高遠駅バス停の北に鉾持神社があり、その東(右)、城山の麓に臨済宗の建福寺が建っている。山門は四脚門である。

寺伝によれば、大宝山建福寺は安元2年(1176)文覚上人が本堂裏手にある「独鈷の池」付近に開創したのが始まりという。その後、建長5年(1253)鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師が入って鉾持山乾福興国禅寺を建立した。天正7年(1579)駿河国清見寺の住持だった東谷禅師を招いて中興開山し、妙心寺派となった。保科氏の時代に大宝山建福寺と改号している。

歴代高遠城主からの信仰が篤く、武田氏、織田氏、保科氏から庇護され、与えられた古文書を多く所蔵している。特に保科氏からは文禄年間(1592~96)に黒印状3通を受け、保科氏の菩提寺となった。幕府お抱えの絵師・狩野興以の紙本墨画中観音左右龍虎図(国重文)ほか、狩野探幽、元信などの絵画もある。本尊は、萃厳釈迦如来である。

境内にある石仏の多くは、郷土の名工・守屋貞治を始めとする高遠石工の石仏群である。とりわけ、山門右手の六地蔵、左手の西国三十三ケ所観音が有名であるが、裏手の墓地から境内を見て回ったため見落としてしまった。これは本堂正面左手の願王地蔵菩薩である。この願王地蔵尊は、この寺で遷化(入滅)した上諏訪温泉寺住職で貞治に大きな影響を与えた、願王和尚を偲んでの力作で、貞治渾身の作といわれ、とても優しい表情をしている。   

本堂の左手にある六地蔵。これは残念ながら守屋貞治作の石仏ではない。

本堂の右手には、天保6年(1835)造立の仏足石が安置され、そこに直立して恭仏跡一十七首之碑が建てられている。

本堂脇にあるこの建物は経蔵である。「光厳」の扁額が掲げられている。

本堂西裏にある墓地の入り口に保科家の墓所がある。

保科家の墓所には3つの墓石が並んでいる。中央が保科正直の墓、左が保科正光の墓であり、右が武田勝頼母の墓である。正直は下総多胡城主であったが、慶長5年(1600)高遠城主となった。正光は正直の子で、高遠城主・会津若松城保科正之の養父である。勝頼の母は諏訪頼重の息女で、武田信玄諏訪氏を滅ぼした後、14歳で信玄の側室とされ、天文15年(1546)に勝頼を生んだ。信玄は勝頼に諏訪氏名跡を継がせ諏訪四郎勝頼と名乗らせた。勝頼母は弘治元年(1555)勝頼10歳の時に没している。勝頼は永禄5年(1562)から9年間高遠城主であったが亡き母の供養に努め、母の法会を高遠城で執り行っている。母の名は実名が不詳のため、諏訪御料人、井上靖著「風林火山」では由布姫、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫、ほかにも雪姫などと呼ばれる。