半坪ビオトープの日記

石山寺、本堂


拝観受付の先、すぐ右手に小さな池があり、石山寺の特徴である硅灰石でできたくぐり岩が見える。10mほどの自然にできた胎内くぐりの穴だが、狭くて岩に触れ服が汚れる。

くぐり岩の先で右手の石段を上がると、途中左手に社が建っているが、詳細はわからない。

さらに石段を上がって硅灰石でできた台地の上に出ると、右に神木が立ち、その左手に観音堂、さらに左隣りに毘沙門堂が建っている。観音堂内には西国33箇所の仏像が安置されている。毘沙門堂は、桁行3間、梁間2間の一重宝形造の桟瓦葺で、安永2年(1773)に建立された。堂内に兜跋毘沙門天(重文)・吉祥天・善膩師童子の3体を祀っている。この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が篤かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が、大工は大坂の大西清兵衛が担当し、大坂で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重とされる。

毘沙門堂のさらに左手に建っているのは、御影堂である。内陣内部の須弥壇には、真言宗の開祖弘法大師石山寺開基の良弁僧正、石山寺第3代座主淳祐内供の遺影を安置している。方3間一重の宝形造桧皮葺で、背面に1間の張り出しを設ける。室町時代の建立だが、慶長期に堂全体の修理が行われている。国の重文にも指定されている。

御影堂の前を左に折れると正面に本堂が建つ高台があり、その手前左手に蓮如堂が建っている。桁行5間梁間4間、一重入母屋造妻入、桟瓦葺の懸造りの建物で、硅灰石の崖にせり出して建っている。慶長7年(1602)に三十八所権現社の拝殿として建てられた。

明治以降、蓮如上人6歳の御影や遺品を祀る堂として使用され、蓮如堂と呼ばれるようになった。

石山寺縁起絵巻』によれば、石山寺聖武天皇の発願により、天平19年(747)東大寺の開祖・良弁上人が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音を安置する草庵を建てたのがはじまりという。『石山寺縁起絵巻』は、寺の縁起や本尊の霊験などを記した全7巻の紙本着色絵巻物で、国の重文に指定されている。平安時代に観音信仰が盛んになると、本堂の前面に礼堂を設けるようになった。本堂は、正堂(内陣)が桁行7間、梁間4間、寄棟造桧皮葺で、礼堂(外陣)が桁行9間、梁間4間、寄棟造桧皮葺懸造である。正堂と礼堂は相の間で繋がっている。正堂は永長元年(1096)の再建で、滋賀県最古の木造建造物とされ、現在の礼堂と相の間は慶長7年(1602)淀君の寄進により増築されたといわれる。

本堂内陣には、本尊如意輪観世音菩薩像が安置されている。日本唯一の勅封の秘仏で、開扉は33年毎である。

本堂右手の相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなむ「源氏の間」がある。『石山寺縁起絵巻』第4巻第1段には、紫式部源氏物語の成就を願って石山寺に籠もり、とっさに浮かんだ情景を経典の裏に書き記したとある。

本堂右手に上がったところ、硅灰石の上に建つのは、三十八所権現社本殿である。1間社流造の桧皮葺で、慶長7年の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立された。華麗な彫刻や彩色で装飾され、その拝殿として同時に建てられた蓮如堂とともに、寺院における鎮守社の構成を伝える遺構として貴重とされ、国の重文に指定されている。

三十八所権現社の少し上に、経蔵が建っている。桃山時代に建立された、桁行3間梁間2間、一重切妻造桟瓦葺の高床の校倉で、かつては国宝の淳祐内供筆の聖教等が収蔵されていた。全国的にも類例の少ない切妻造の校倉であり、滋賀県最古の校倉造である。御影堂・蓮如堂・経蔵などの建物群は、石山寺の独特な伽藍を形成した、慶長期の復興造営の様相を伝える建築物として高い歴史的価値がある。