半坪ビオトープの日記

田名部神社、旧斗南藩墓地


常念寺の近くに田名部神社がある。かつてむつ市の田名部は南部藩代官所が置かれ、下北の産業・経済・文化の中心地となっていた。田名部自体には海に開けた港はなかったが、陸奥湾(大湊湾)に停泊した北前船から荷の積み卸しが田名部川を通して行われ、その水運で栄えた。下北からは上方に向けてヒバ、アワビ、ナマコ、コンブが出荷され、諸国からは西廻り航路を通って数々の珍しい物品や、言葉や文化などがもたらされた。下北の産物は高級品として扱われ、上方や中国に長崎俵物として売られた。そうして下北の町人は富を得たので、当時の下北人は食うに困らず、徘徊などの文学や書を嗜み、学問をする余裕があったと伝えられている。
堂々とした造りの明神鳥居に掛かる赤い扁額が際立っている。社号標は熱田神宮宮司の筆によるという。

田名部神社は旧郷社であり、主祭神は味耜(あじすき)高比古根命・誉田別尊で、示現太郎大明神とも称した。他に宇曽利山大山祇大神、管下神社大神を祀る。アヂスキタカヒコネは、大国主命宗像三女神の多紀理比売の間の子で、農業の神、雷の神、不動産業の神として祀られている。別名、迦毛大御神(かものおおみかみ)は、賀茂社の神の意である。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。
盛岡藩から社領100石を与えられ、旧田名部町と周辺34ヶ村の総鎮守として尊崇された。明治6年(1873)に田名部館跡(現、代官山公園)の八幡宮に合祀されたが、やがて現在地に戻り、明治9年に田名部神社と改称された。

田名部神社は、かつては柳町の高台に鎮座していたが、元和2年(1616)の類焼によって古記録を焼失し、由緒・創建時期などは不詳となっている。しかし康永4年(1341)の鰐口が残っていることから、それ以前の創建とされる。寛永12年(1635)に書かれた『盛岡城事務日記』によれば、祭神が宇都宮二荒山(神社)より万民守護のため宇曽利山に飛来し、大衡村荒川一本松に鎮座していたのを、22代別当・小笠原丹後が霊夢により田名部村に動座、海辺総鎮守・北郡総鎮守・田名部大明神と称していたという。

東北の夏祭りの最後を飾るのが下北最大規模の田名部祭りである。8月18日から20日まで市内に繰り出す豪華絢爛な5台の山車行列は、北前船によって伝えられた京都祇園祭の流れを汲むといわれ、哀調を帯びた祇園囃子とあいまって一見の価値ありという。寛政4年(1792)から7年まで田名部を拠点として下北各地を旅した菅江真澄の記録に書かれているので、それ以前から行われていたとされる。近年は流し踊りや樽神輿など新しい要素が加わり現代化しつつあるといわれる。

社殿と社務所に挟まれた右手塀沿いには、忠魂碑などの石碑が幾つか立ち並んでいた。

田名部神社から尻屋崎に向かい東に進むと間もなく、旧斗南藩史跡や旧斗南藩墓地がある。表高23万石を誇った会津藩は、尾張紀伊・水戸の徳川御三家に次ぐ家柄で、葵の紋を許された奥羽の雄藩だった。ペリー来航を契機に佐幕派倒幕派が対立する中、9代会津藩松平容保は幕府の命を拝し京都守護職に就任した。攘夷運動が激化した京都の治安維持に努め、公武合体の第一線に立って職務を全うしたが、慶応3年(1867)大政奉還王政復古の大号令が発せられ、5年にわたる京都守護職を解任される。旧幕府を戴く会津藩は新政府との戊辰戦争に敗れ、「朝敵・逆賊」の汚名を着せられ廃藩となった。明治2年に家名再興を許され、生後5ヶ月の容保の実子・容大を後継に斗南藩3万石を立藩した。藩主幼齢のため山川容が権大参事となり、明治3年に会津人たちは陸奥国北・三戸・二戸3郡の斗南藩領へ移住した。
むつ市田名部の東、数kmほどの所に旧斗南藩史跡が広がり、近くには旧斗南藩墓地がある。

斗南藩は常念寺や田名部神社に近い円通寺に藩庁を置き、田名部郊外の妙見平に開墾の取り組みをしたが、明治4年には廃藩置県弘前県に併合され、2800戸(4320戸の説あり)、17,300人余りの移住者は、過酷な労働と厳しい気候に耐えかねて病死者・失踪者が相次ぎ、明治6年には50戸しか残らなかったという。踏みとどまった者の中からは、藩校斗南日新館で学び、のちに東京帝大総長となった山川健次郎や、のちに義和団の乱の際、籠城部隊を取りまとめ11カ国の公使館を守り抜いてイギリスなど各国から勲章を受けた、陸軍大将柴五郎らが出た。
高台にひっそりと佇む旧斗南藩墓地にある案内板には、斗南藩権大参事・山川浩の歌が記されている。「みちのくの斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答へよ」 

斗南藩墓地には旧藩士たちの墓はわずかしか残っておらず、近年、生き残った子孫や斗南会津会により建てられた「斗南藩追悼之碑」がかろうじて往時を偲ぶ証となっている。追悼の碑の一番左の小さな墓石は、竹村俊英祖母の墓という。竹村俊英(通称、幸之進)は、山川大蔵(後の浩)指揮下の狙撃隊隊長として奮戦、籠城戦を戦い抜く。斗南藩へ移住し、後に青森県開墾掛頭取となったが、思案橋事件に連座し、明治10年(1877)に斬首されたが、事件に参加しておらず処刑後に冤罪と判明した。享年33歳。墓は東京都新宿区の源慶寺にある。思案橋事件とは、明治9年に日本橋思案橋で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件で、山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。主犯の永岡は獄中死、会津藩士3名だけ斬罪となった。

わずかしか残っていないという旧藩士たちの墓はどこにあるかもわからず、ほとんど人が訪れそうもないひっそりとした墓地であった。