半坪ビオトープの日記

下風呂温泉


下北半島を一日かけて一周し、半島北辺の下風呂温泉に泊まる。温泉名は、この地のことをアイヌ語で臭い岩を意味する「シュマフラ」と言っていたことに由来する。シュマは岩・石の意、フラは臭いの意で、硫黄が吹き出るため周囲の岩が臭いことによる。地元では恐山を「上風呂」に見立て、ここを下風呂としたともいわれる。
温泉は室町時代からの歴史を持ち、康正年間(1455~57)の地図には「湯本」との記載がされている。当時は凍傷に効能がある温泉として知られていた。明暦2年(1656)には南部藩主・南部重信が入湯している。古くはニシン漁師の湯治場として栄え、現在はイカ漁の行われる漁港として温泉街が成立している。今でも夏から秋にかけてイカ釣り漁船の漁り火を見ることができる。
寛政5年(1793)8月に下風呂を訪れた江戸時代の紀行家・菅江真澄は、ここで不思議な光景を目にしている。「沖より、鬼火のやうに、波のうへの光あるはいかにととへば、塩光とも、しほたまともいふといらふ」。(『まきのあさつゆ』)

海岸沿いの山肌に、大湯・新湯という二つの共同浴場のほか、温泉旅館や民宿が立ち並ぶ。共同浴場は湯船が深く埋め込まれ、昔の銭湯を思わせる素朴な造りとなっている。温泉街では「湯めぐり」という湯巡り手形が発行されている。源泉井は、大湯・新湯・浜湯の3つあり、泉温・泉質は、65~95℃、塩化土類硫化水素泉などである。

大湯の前の道の突き当たりに曹洞宗の自由寺というお寺がある。

下風呂の漁民に信仰の篤い自由寺では、明治17年以来毎年8月27日に、漁船の海上安全と大漁を祈願して下風呂龍神祭が行われている。僧侶が御札を海に納札するために乗船する御座船をくじで決め、各漁船は大漁旗を風になびかせる。御座船を見事引き当てた船は、一年間大漁に恵まれるという言い伝えがあり大変名誉とされている。

自由寺には青銅の薬師如来があり、「薬師如来の記」が残されている。貞享4年(1687)に、京都妙心寺の大道生安という和尚が、布教のため全国を遊歴した折に下風呂温泉に入浴した。その際、湯守の長四郎・清三郎等に薬師如来を寄進する約束をして帰り、翌年、薬師如来像を鋳造して寄進した。その書には、大湯の湯小屋のことも記されているという。

自由寺の右脇から石段の参道が続き、色鮮やかな鳥居がいくつかあって、山上の若宮神社に誘っている。

参道の途中には赤紫色のハマナス(Rosa rugosa)が咲いていた。バラ属の落葉低木で、東アジアの温帯から冷帯にかけて分布し、日本では北海道に多く、南は茨城県、西は島根県までの主に海岸の砂地に自生する。果実の形がナシに似ていてハマナシと名付けられ、それが訛ってハマナスとなった。根は染料に、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。

稲荷神社は明暦3年(1657)に勧請され、下風呂字湯の上に鎮座している。10月上旬に行われる若宮稲荷神社祭典は、村内唯一の秋祭りである。

昭和23年に新造された船山・2代目若宮丸の後ろに見送りや四斗樽、鉾や旗などいろいろな装飾がなされる。夜には昼間の飾り物を外し、行燈等をつけて違った雰囲気となり、最後に「狂い獅子」がフィナーレを飾る。
社殿正面の向拝には鶴の兎の毛通しが飾られ、彫刻の施された虹梁には、「波の上の龍」とも名付けたい迫力のある彫刻が設えられている。とりわけ波の意匠が見たこともないくらい特異で目を引く。

温泉街から山裾にかけて、未成線である大間線の遺構が多く残り、「海峡メモリアルロード」として遊歩道整備されている。大間線は戦時中に工事が中断されたままとなり、2005年に幻の大間鉄道橋が遊歩道として復活した。

海峡メモリアルロードの中央には、下風呂(温泉郷)の駅舎が建てられていて、足湯も設置された休憩所となっている。足湯を楽しみながら津軽海峡や北海道恵山岬を眺めることができる。

昭和32年から讀賣新聞に連載した井上靖の小説「海峡」は、下風呂温泉を作品の舞台にしていたため、下風呂温泉を一躍有名にした。また、水上勉の「飢餓海峡」の舞台にもなり、この作品は映画化もされている。