半坪ビオトープの日記

仏ヶ浦、蓬莱山  


江戸時代、下北には全国各地から多くの人々がやってきた。海運の発達や旅の盛行を背景とし、さらに蝦夷地への渡航地として訪れる人も多かった。伊能忠敬最上徳内松浦武四郎らを始めとする幕府関係者や探検家も多いが、今も下北の人々の中に生き続けているのは、円空菅江真澄である。江戸前期の僧、美濃生まれの円空は、寛文5年(1665)に青森の津軽に来た後、蝦夷地・津軽・下北を行脚した。三河の人・菅江真澄は江戸後期に、東北・蝦夷地を旅して、その風景・風俗などを図入りの紀行文に残した。佐井村の渋田家と八幡宮岩清水家には、真澄の書簡などが残されている。さらに高知県出身で、近代日本の詩人・歌人・随筆家であった大町桂月は、大正11年(1922)に下北半島を訪ね歩いた。佐井村を訪れた大町桂月は、仏ヶ浦を目の前にして、自然の造形による異様な光景に驚き、歌にして詠んだ。その歌碑が極楽浜の右(南)手奥に建てられている。

「神のわざ鬼の手造り仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」大町桂月
桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に名が知られるようになった。1934年には青森県天然記念物に、1941年には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定され、2007年には日本の地質百選に選定された。とはいえアプローチが不便で観光客はそれほど多くはなかった。1991年に観光船が接岸できる小さな桟橋(仏ヶ浦港)が建設されることによって、ようやく上陸して観光できるようになり、一躍脚光を帯びるようになった。

大町桂月も驚嘆した不思議な光景は、波や流水によって侵食された結果だが、雲の形のように侵食されたタフォニと呼ばれるものや、流水によると思われる縦に筋がたくさん入った侵食地形、海の波による侵食崖など、様々な侵食地形が見られる。この侵食されやすい白から緑白色の岩石は、グリーンタフ(緑色凝灰岩)と呼ばれる。新生代以前の花崗岩類などが基盤の上に新生代のネオジン(新第三紀)の地層があり、さらに第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩(グリーンタフ)が覆っているという。

海岸線には高さ90mにもなるという海食崖が続くが、この独立して突っ立っている岩は、如来像の顔に似るとして、如来の首と呼ばれる。右手に見える人影と比較してもその大きさが推し量られる。

こちらも孤立して残っている高さが20m以上ある巨岩で、天龍岩と呼ばれている。下から見上げる光景は圧巻で、海上から眺めた姿とは全く異なって見える。頂上には空に吠える怪獣らしき姿が認められる。

右手に見える大きな岩が仁王の顔と呼ばれる岩である。そう言われればそう見えるのだが、如来の首といい、仁王の顔といい、よくも名付けるものである。

仁王の顔のすぐ右手の高い所に、二羽の鶏が向き合っているように見えるのが双鶏門である。

如来の首を過ぎてなおも進むと、ゴツゴツした岩塊と屹立する海食崖が見えてくる。

秋吉台で見かけた石灰岩の塊のように見える岩塊は、蓮華岩と呼ばれる。蓮華とはハスのことだが、なぜ砂に埋もれず海岸に転がっているように見えるのか不思議だが、周りが波で削られたのであろう。

蓮華岩の先にそびえる蓬莱山(鳳鳴山)の岩肌は鋭い縦縞が幾筋も走っている。溶岩流が溶けて流れた跡で、それが長い間に流水や風雨に洗われて針山のような姿となったようだ。海上から見た姿を思いおこすと、蓬莱山というよりその左手前の十三仏ではないかと思われる。

まだまだ奇岩は続くが、上陸しての見学時間は30分だけなので、そろそろ引き返さなければならない。

仏ヶ浦は隔絶した大変不便な場所にあるが、それにしても、これほどの奇岩怪礁の景勝は今まで一度も見たことがない。仏ヶ浦とはよくも名付けたものだと思うが、異様な光景にはとことん圧倒されてしまった。