半坪ビオトープの日記

真木大堂


真木大堂に向かう途中、田染八幡神社の北側の凝灰岩層の岩壁に抉られた龕に、覆い堂に保護された元宮磨崖仏を見かけた。近隣の熊野磨崖仏とともに国の史跡に指定されている。

不動明王を中心として、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、毘沙門天、左に持国天地蔵菩薩と、5体の像が東面して薄肉彫りで刻まれている。不動明王の左側にはかつて制窳迦童子があったと言われるが、現存していない。鎌倉時代末期〜室町時代初期の作という。地蔵菩薩は他の像に比べて小さく、後世に付け加えられたものであるとされる。

真木大堂は馬城山伝乗寺の堂宇の一つであったと伝えられ、伝乗寺は養老2年(718)に仁聞菩薩の開創と伝えられる六郷満山の本山本寺8ヶ寺の一つで、その中でも七堂伽藍を有する最大規模の中心的寺院であり、田染地区に36の寺坊を有していたという。

約700年前に火災により焼失し、詳細な資料は残されていない。現存するのは江戸時代に再建された小規模な旧本堂(大堂)と、焼失を免れた9体の仏像を安置する昭和40年代に新造された収蔵庫のみである。

9体の仏像が収められていたという旧本堂には、伝乗寺の扁額が掲げられ、白塗りの仁王像が安置されている。国東半島の仁王像はほとんど石造なので、木造の仁王像は珍しい。

右側の阿像は楠の一木造で、像高は225cm。平安末期から鎌倉初期にかけて造られ、左の吽像は江戸時代後期に造り直されたものという。仁王像の肩の後ろに見える朱塗りの扉に菊花の紋章がある。鎌倉時代に蒙古が文永11年と弘安4年に襲来してきたとき、鎌倉幕府は教書を発し、これを受けて豊後守護職が六郷満山に対し、異国降伏の祈願を行うよう施行状を発した。その恩賞として弘安8年、将軍家を経て朝廷より菊花の紋章が下賜されたもので、他に類例を見ないという。

収蔵庫には平成20年に修復された9体の仏像が安置されているが、残念ながら撮影禁止である。これは本堂にあった、修復前の昔の写真。本尊の木造阿弥陀如来坐像は、像高216cm。丈六の檜材の寄木造り。法衣の衣文は11世紀後半に京都で流行した定朝様式だが、肩幅広く厚みのある体躯やきりりと結んだ唇などには定朝以前の様式が見られるとされる。左から像高158cmの増長天、像高166cmの広目天、像高162cmの多聞天、像高161cmの持国天と四天王が阿弥陀如来を囲んでいる。この写真には載っていないが、他に収蔵庫に安置されている仏像は、像高255cmの不動明王像および像高130cmの二童子像と像高241cmの大威徳明王像がある。榧材寄木造りの不動明王像は日本最大の木彫不動像であり、樟材一木造りの大威徳明王像は日本最大の木造大威徳明王像である。これら9体全てが国の重文に指定されている。

国東半島には六郷満山文化の遺産として、国東塔、宝篋印塔、五輪塔ほか多くの石像文化財が残されている。散財する石造物をここ真木王堂の境内に集めて、古代公園としている。

こちらの庚申塔は、安山岩製、高さ170cm、享保13年(1728)作で、豊後高田市の有形民俗文化財に指定されている。笠は寄棟造、塔身上部に日月輪と瑞雲を刻み、中央に一面六臂の青面金剛と脇侍の童子像を蓮華座上に、下に三猿・二鶏・四夜叉、その下部に講中の名を刻む。三猿は庚申塔のシンボルで、二鶏は夜明けを告げる鶏、四夜叉は青面金剛の従者である。

こちらの国東塔は、安山岩製、高さ160cm、南北朝時代末期の作である。相輪頂部は欠損し、笠は緩やかに反り、塔身は首部がなく、基礎上端に反花座を一石で刻み、その上に別石で請花を置く。

境内には宝篋印塔や五輪塔もいくつか並べられているが、国東半島にしかないという国東塔は、基礎と塔身の間に反花または蓮華座、あるいは双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴であるというが、五輪塔と宝篋印塔を組み合わせたような形が元にあるとも思われる。

真木大堂の収蔵庫が撮影禁止なのは残念だが、パンフよりまとまっているポスターを見つけたのでそれを載せておく。中央に阿弥陀如来坐像、その左右に小さく四天王像、右上に不動明王像、左上に大威徳明王像が配置されている。大威徳明王像は、頂上にさらに三面を頂き、炎髪開口、牙を露出し、火焔光背を負い大憤怒相に表され、本面額に縦に大三眼が彫り出されている。