半坪ビオトープの日記

延暦寺東塔、大講堂


比叡山延暦寺は、滋賀県大津市の西部、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。平安時代初期の僧・最澄伝教大師)により開かれた日本天台宗の総本山であり、日本仏教の母山とも呼ばれる。一般に比叡山または叡山と呼ばれ、また北嶺とも称された。
比叡山延暦寺は、東塔、西塔、横川の三塔十六谷に所在する150ほどの堂塔の総称であり、最盛期は3000を超える寺社で構成されていたという。
大津市街地から車で上る比叡山ドライブウェイと、麓の坂本から上るケーブルの合流地点に近い東塔は、比叡山延暦寺三塔の中心で、延暦寺発祥の地。拝観受付の左側には大きな国宝殿が建つが、その手前に「元亀兵乱殉難者鎮魂塚」という石碑が立っている。
比叡山延暦寺は、織田信長の叡山焼討ちに逢っている。元亀2年(1571)信長軍は坂本の日吉山王二十一社全てを焼き払い、ついで比叡山根本中堂以下三塔十六谷の堂塔、僧坊500を3日3晩かけて全て焼き尽くし、坂本から逃げ込んだ者千余名、山上の僧俗千余名はことごとく焼殺、惨殺された。天下統一を目指す信長に、旧勢力に属す延暦寺守護大名の越前朝倉家や近江の浅井家などと連携して対抗したためだが、傷跡はあまりにも大きかったという。420年後(平成4年)に犠牲者、殉教僧俗2千余名の追善供養を行い、鎮魂碑を建てた。

平成4年に開設された国宝殿には、国宝の天台法華宗年分縁起や重文の釈迦如来坐像、薬師如来坐像など数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財を展示している。館内は撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。この仏像は、木造維摩居士坐像。平安時代(9C)作で、重文に指定されている。

こちらの仏像は、木造五大明王像の中央部分。鎌倉時代(13C)作の重文。中央の不動明王のすぐ脇に二童子があり、その左に軍荼利明王、右に降三世明王が並び、その左右に大威徳明王金剛夜叉明王が並ぶが写っていない。7躯の像が伝来する延暦寺を代表する仏像の一つである。

こちらの仏像は、釈迦如来坐像。平安時代(12C)の作で、横川霊山院伝来とされる。元亀2年の信長による比叡山焼き討ちの際にも助け出されたという。

国宝殿の前を進むと、左側に大講堂が建っている。天台座主第1世義真和尚が天長年間(824~34)に建立したといわれる、学問研鑽のため議論をする道場である。現在の建物は、前の建物が昭和31年に焼失した後、昭和38年(1963)に山麓坂本にあった寛永11年(1634)建立の讃仏堂を移送・再建したもので、10代目の建物という。桁行7間、梁間8間、単層入母屋造瓦棒銅板葺で、国の重文に指定されている。

本尊は大日如来で、その両脇には、日蓮道元栄西円珍法然親鸞良忍・真盛・一遍といった、叡山で研修し新たに宗派を打ち立てた開山祖師の像が安置されている。撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。

大講堂の右手に建つ鐘楼の鐘は、「開運の鐘」と呼ばれ、今は工事中だが、50円払えば誰でも自由に撞くことができる。昔は比叡山に一大事があった時にはこの鐘が撞かれた。延暦寺焼討ちのときもそうだったが、その当時の梵鐘は国宝殿に保管されているという。