半坪ビオトープの日記

国東半島、富貴寺


三日目は大分県の国東半島に向かった。熊野磨崖仏などがある国東半島は、神仏習合の信仰形態をもつ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。石段の参道入口の両側にはいくつもの石造物が並んでいる。石段左側の石灯籠に似た六地蔵石幢は高さ215cmで、江戸時代の作という。富貴寺境内は国の史跡に指定されている。

左側の石幢の奥と、石段右手奥には一対の十王石殿がある。大きな入母屋屋根の下の軸部には正面に3体、側面に2体の道服を着た石仏が、左右合わせて十体、つまり十王が彫られている。室町時代民間信仰の遺品とされ、県指定有形文化財である。

石段を上りながら右側の石殿を見ると、一番右に石殿、その左に不動明王石仏(地蔵石仏)、一つ置いて庚申塔が並んでいる。

石段を上りきると、木立の中に石造の仁王像が守る堂々たる四脚門の山門が建っている。富貴寺は国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718)、仁聞の開創と伝える。伝説的な仁聞は、国東半島の6つの郷に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれる。国東半島一帯にある仁聞関連寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」という。六郷山の寺院は、平安時代後期には天台宗となり、比叡山延暦寺の末寺となった。山門の扁額「安養閣」とは、大堂の別称である。

山門をくぐると大きな栢ノ木と公孫樹の奥に宝形造りの富貴寺大堂(おおどう)が見える。富貴寺には、久安3年(1147)の銘のある鬼神面があり、宇佐神宮宮司・到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223)作成の古文書の中に「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があるので、富貴寺は12世紀前半から中頃に、宇佐八幡大宮司家により創建されたと推定されている。現存する大堂は、その頃の建築と思われ、天台宗寺院にしては浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。天正年間(1573-92)、キリシタン大名大友宗麟の時代に、多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難を免れ、近畿地方以外に所在する数少ない平安期の建物の姿を今に伝えている。九州現存最古の木造建築物で、国宝に指定されている。榧の総素木造り、正面三間、側面四間の建物で、周囲に廻縁がある。屋根は単層宝形造り、「行基葺き」と呼ばれる特殊な瓦葺きである。

堂内は板敷で、四天柱で内陣が区切られ、国の重文である木造阿弥陀如来坐像が安置されている。高さ85cmの榧材寄木造り。螺髪で二重円光を背負っている。蓮華座の上に結跏趺坐し、上品上生の印を結ぶ。藤原時代末期の作と推定されている。平安三壁画の一つに数えられる貴重な壁画も重文に指定されている。内陣後壁には浄土変相図、四壁には五十仏、四天柱には胎蔵界曼荼羅の中心部尊像が描かれている。小組格天井も端正な造りである。参観はできるが撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。ちなみに、宇佐風土記の丘にある大分県立歴史博物館には、創建当時の富貴寺大堂内部の阿弥陀像と極彩色の壁画が再現されている。

大堂は南に向いて建っているが、西側には石造物がいくつも並んでいる。仁治2年(1241)銘を最古とする笠塔婆は、県の指定有形文化財である。

笠塔婆の奥、一番右の大きな石造宝塔がいわゆる「国東塔」である。国東塔(くにさきとう)は、国東半島に約9割が集中している特異な宝塔で、総数は約500基。一般の宝塔が台座を有さないのに対し、基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによっては双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴である。鎌倉時代後期から江戸時代までのものが知られる。この国東塔は室町時代のものであり、右の小さい国東塔と合わせてこの2基が「国東塔」命名の元になったものである。

これらの石造物群のさらに西側に、白山社(六所権現社)に上がる石段がある。拝殿奥の本殿は宝暦11年(1761)建立である。

富貴寺大堂の右後方の石段を上がったところには、石造の薬師像が安置されていて、薬師岩屋(奥の院)と呼ばれる。

大堂の右手前に本堂が建っている。桁行18.22m、梁間9.15mの入母屋造、桟瓦葺き。現在の本堂は正徳5年(1715)の建立と伝えられている。富貴寺の山号は蓮花山と称する。

本堂安置の阿弥陀三尊像は、県の有形文化財に指定されている。

同じく本堂建立時に作られたとされる満山最古の木造の仮面も県の有形文化財に指定されている。榧の菩薩面1面、樟の追儺面2面。二段目左側の追儺面は男女の面で、修正鬼会の鈴鬼の原型ともいわれる。面の裏には久安3年(1147)作の銘が墨書されている。