半坪ビオトープの日記

観音院、本堂


埼玉県小鹿野町の町役場の西の沢沿い、標高698mの観音山の中腹に、秩父札所31番の曹洞宗の観音院がある。駐車場手前の谷川を渡ると山門があり、大きな石像仁王尊が立っている。

石材は凝灰質砂岩で、観音院裏山から掘り出し、秩父の黒沢三重郎と信州の藤森吉弥により明治元年に作られた。
一本石造りの像高4m、重量約2.4tで、日本一の仁王尊と称する。

山門の脇には、石佛仁王尊供養塔がある。渋沢誠室書とあるが、本名渋沢宗助の号である。宗助は血洗島村の渋沢一門の名主で、養蚕改良家であり、渋沢栄一の伯父にあたる。

山門をくぐると、本堂へ至る長い石の階段が続く。本堂までお経の数に合わせて296段の石段である。参道脇には、天保14 年(1843)に作られたという階段供養塔がある。

数日前に降った雪がまだ少し残っていて、それが凍って階段は滑りやすくなっている。最近できたという手すりが有り難いが、石の階段もよくできている。

ようやく石垣の上の方に、鐘楼堂や本堂を垣間見るようになる。

高さ60mほどの大きな崖を背にした広場のような境内に、鷲窟山観音院の本堂や大師堂が並んでいる。観音院の本堂は、南向きの宝形屋根、三間四面のコンクリート造で、本尊は聖観音である。

寺の案内によれば、その昔、行基が座像一尺八寸の本尊聖観音を彫刻し堂塔建立したが、承平5年の将門の乱にて神社仏閣が廃壊された。鎌倉時代になり、畠山重忠が当山に狩猟の折、家臣本田親常に鷲の巣を射て落とせと命じたが、親常の射る矢はことごとく跳ね返された。不思議と寄ってみれば観音像があったという。古老に行基の話を聞くと、重忠は親常にお堂を建立させたという。

その後盛衰ありて幕末の頃、本山中興二度開山観法法印、さざえ堂式の本堂並びに大宝篋印塔等を建立する。明治26年に本堂焼失後長らく仮堂だったが、昭和47年に本堂が再建されたという。

観音堂の左には、落差30mほどの「聖浄の滝」があるが、水はわずかに雫が落ちる程度であった。明治の修験道禁止令までは、修験道の行者が水垢離をした所である。

滝の右脇には、不動明王像が菩薩などの石仏の上に厳しい表情で立っていた。