半坪ビオトープの日記

井上伝蔵邸


龍勢会館の右手に、復元された井上伝蔵邸がある。秩父事件百二十周年記念映画「草の乱」の撮影用に復元されたセットを「秩父事件資料館」として公開展示している。

丸井商店は、江戸時代の寛政年間(1800頃)に江戸城御用達の鑑札を拝領し、その代から井上伝蔵を襲名した。井上伝蔵は、屋号「丸井」という商家の六代目である。龍勢会館から井上伝蔵邸に廊下伝いに行くことができる。

龍勢会館にも映画「草の乱」で使われたと思われる、武装蜂起に集結した村々の旗がいくつも立てられていた。

「丸井」は、秩父の特産品である生糸や絹布、木材、薪炭を買い集めて江戸や横浜に運び、逆に江戸の日用雑貨、食料品を仕入れて売るという商いをして繁盛していたようだ。4基のかまどが豪商の台所を示している。

若くして家督を継いだ伝蔵は、二十歳の頃には父に代わって商売のために上京するようになり、次第に自由民権思想にも関心を寄せるようになった。秩父事件の起きた明治17年(1884)の2月に秩父へ遊説に来た、自由党幹部・大井憲太郎の演説後に正式に自由党に入党した。その2ヶ月後には秩父自由党の責任者的存在となっている。高岸善吉や落合寅市ら秩父自由党員が秩父困民党を作ると、伝蔵と大宮郷の田代栄助が困民党幹部として迎えられた。高利貸説諭請願運動から貧民救済の4項目要求も成果が得られず限界が来たとして、10月12日、伝蔵の家で幹部が集合し、武装蜂起を決定した。26日の秘密会議で、総理栄助・会計長伝蔵等の一ヶ月延期提案より即時蜂起論が凌駕し、11月1日に椋神社に三千人余りの農民が集結して蜂起となった。大宮郷秩父郡役所を占拠した困民党軍に対し、憲兵隊や鎮台兵が包囲する状況となり、栄助や伝蔵等は再起を期して山中に身を潜めた。逮捕者380名、自首3238人が尋問を受け、田代栄助ら5名と欠席裁判の伝蔵ら2名の計7名が死刑判決を受けた。伝蔵は3年後には北海道に逃れ、30年ほど偽名で代書屋などを勤めて65歳で亡くなった。

明治16年(1884)に入籍した妻・こまは、伝蔵が東京の花街で見初めた女性であり、翌年には長女が誕生している。この間、伝蔵は首席筆生(助役)などの公職を歴任している。

帳場に続く客間には、映画で伝蔵役が出陣の際に着用した衣装が展示されていた。

伝蔵は北海道石狩で再婚し、3男3女をもうけ、俳句も詠んだ。亡くなる直前、妻と長男に秩父事件の伝蔵であると明かし、来歴を語ったという。資料館内では、映画「草の乱」のダイジェスト版も鑑賞できる。