半坪ビオトープの日記

観音院、磨崖仏


滝の手前、大きな断崖の下に大きな宝篋印塔が建っている。嘉永4年(1851)小鹿野の森玄黄斎が造り奉納したという。

宝篋印塔の右後ろ、断崖の大岩に鷲窟磨崖仏が彫られている。弘法大師が一夜にして爪彫りで千体彫ったと伝えられているが、室町時代頃の制作と推定されている。県の文化財に指定されていて、現在は約300体が確認できる。奥の院に向う岩窟などにも石仏があり、山全体では十万八千体の石仏があるという。

断崖の左手の窪みに弘法大師の石像が安置されている。高い所から観音堂を見守っているようだ。右手にある石碑は、加舎白雄の句碑である。
「かくのごとく瀧にねれたり旅ごろも」安永元年(1772)南紀那智の滝で詠まれた句。寛政3年(1791)白雄は秩父を訪れている。

さらに左手にも、弘法大師像がある。慶応2年(1866)石像仁王尊と同じく秩父の黒沢三重郎と信州の藤森吉弥が作ったという。

さらに左手には、滝の上石仏群や西奥の院への道があり、胎内潜りや天笠岩石仏群もあるのだが、崖が崩壊していて立入り禁止となっていた。
熊出没注意の標識の脇には、本山中興二度開山観法法印の即身仏の墓があった。

境内の中央にある観音堂の右隣には、大師堂が建っている。

堂内には、弘法大師像が祀られている。当山はどう見ても真言宗系の修験道の修行の場であるが、現在は曹洞宗である。明治初年の神仏分離令と明治5年の修験道禁止令で、神仏習合が主体だった日本古来の山岳信仰は解体の危機に陥った。当山はその時に曹洞宗に改宗したものと思われるが、時間が経つと簡単には元には戻せないのだろう。

大師堂の右には、納経所があるのだが、その間に高桑闌更の句碑がある。「山陰や烟りの中に梅の花」三日月庵無三建立。苔むして読めないせいか、新しい句碑も近くにある。高桑闌更は江戸中後期の俳人で、別号は半化坊。金沢の商家に生まれ、加賀蕉門の重鎮・和田希因に学ぶ。江戸に二夜庵を結び、広く関東甲信越遊吟する。晩年蕉風復古を唱え、京都で芭蕉堂を営んだ。蕪村とも並び称され、一茶とも交流があった。

広い境内の右端に納経所がある。正面右端には観音院霊験記の錦絵の模写が掲げられている。元の観音霊験記は、歌川広重(二代目)と歌川国貞が描いたもので、江戸時代末期に出版されている。

納経所の左脇の道をくぐると東奥の院ミニハイキングコースがあるのだが、すぐ左側に新生代第3紀(約1700万年前)の地層が見える。花崗岩質砂岩と礫岩の互層で、当時の火山活動を物語っている。