半坪ビオトープの日記

円教寺常行堂、大講堂、食堂


書写山の山上にある円教寺は、康保3年(966)性空の創建と伝わる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前にその地に祠が祀られていたという。山号の由来はこの「素盞」といわれ、姫路市と合併する以前の飾磨郡曽左村もそれに由来するという。創建当初は「書写寺」と称した。
摩尼殿から数分で大講堂のある広場に出る。白砂の広場を囲んで、右(北)に大講堂、正面(西)に食堂、左(南)に常行堂の3棟が「コ」の字形に並ぶ一画は、中世の寺院景観を現在に伝えており、3棟を総称して「三之堂」と呼ぶ。元徳3年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、現存する各堂は室町時代、15世紀半ばの再建である。広場の入り口に常行堂が建つ。

常行堂は享徳2年(1453)に建てられた、方5間の入母屋造で、北側に正面10間、側面2間、切妻造の吹き放しの建物が接続する特異な形式の建物である。切妻造の東半部を中門、西半部を楽屋と称し、中央部に唐破風造の舞台が突出する。常行堂は東を正面とし、本尊の木造阿弥陀如来坐像を安置する。像高254cm、檜の寄木造、漆箔。性空の弟子・安鎮により寛弘2年(1005)頃に造立されたとされる。

性空の生年については諸説あるが、『性空上人伝記遺属集』によれば、延喜10年(910)の生まれで、貴族の橘氏の出身という。出家した36歳から約20年間、霧島山脊振山など九州で修行を積んだ後、康保3年(966)に書写山で庵を結んだのが始まりとされる。性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇が寛和2年(986)に来山して、円教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされ、円教寺の本堂に当たる最も重要な建物の一つである。

現在の大講堂は、2重1階、入母屋造、本瓦葺桁行7間、梁間6間で、下層は永享12年(1440)に、上層は寛正3年(1462)に建造され、その後何回か修復されている。内陣には本尊である木造釈迦如来及び両脇侍像(文殊菩薩普賢菩薩)が安置されている。檜の一木造、漆箔の釈迦三尊像は、永延元年(987)の造立とされる。

「コ」の字形の正面にある食堂は、承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称された。元徳3年(1331)の火災で焼失後、現在の食堂は、暦応元年(1338)に建てられたもので、木造総2階建、入母屋造、本瓦葺、桁行15間(約38.7m)、梁間4間で、仏堂建築の中では国内最大級の規模を誇る。別名は長堂、古くは三宝院と称された。修行僧の寝食のための建物で、本尊は僧形文殊菩薩
これら三つの建物、常行堂、大講堂、食堂は映画「ラストサムライ」、大河ドラマ「武蔵」「軍師官兵衛」でもロケ地となったことで知られる。

食堂の2階は宝物館となっていて、姫路城大天守三代目鯱瓦も展示されている。この瓦が作られてから31年後の天保5年(1834)姫路城主・酒井忠実は鯱瓦を新調しているが、この瓦がなぜ円教寺に伝存するかは不明である。

武蔵坊弁慶は一時期書写山で修行したとされ、弁慶の勉強机なども展示されている。寺内には他にも「弁慶のお手玉石」や「弁慶鏡井戸」などがあるが、史実である証拠はない。

他にも寺内の諸堂にあった仏像や絵画などの寺宝が多数展示されている。左は大日如来坐像、その右は阿弥陀如来立像である。

左から金剛夜叉明王軍荼利明王不動明王大威徳明王降三世明王と並ぶ。

食堂の本尊は、木造の僧形文殊菩薩坐像。像高84.5cm。

「コ」の字形の「三之堂」の向かいには本多家廟所があり、霊廟が5棟建立されている。徳川四天王の一人、本多家の祖、本多忠勝の霊廟は寛永3年(1626)に、本多家として初代姫路藩主・本多忠政の霊廟は寛永8年(1631)に建立されている。5棟いずれも宝形造、本瓦葺、桁行1間梁間1間、内部に五輪塔が安置されている。また、ここには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。

食堂と大講堂の間を抜けると突き当たりに小さな覆屋が建っている。仏事などの際に「灌頂水」を汲みあげる井戸と思われる。その左手に「弁慶の鏡井戸」がある。『義経記』によると、比叡山を下りた弁慶は性空上人を慕って書写山に登り修行に励んだ。ある日弁慶が昼寝をしていた時、悪僧の信濃坊戒円が弁慶の顔に落書きをした。周囲の者の大笑いの声で起きた弁慶は、この井戸に顔を映して初めて落書きに気づき、烈火のごとく怒った。その喧嘩が元で大火事が起こり、山内の建物を焼き尽くしたという。