半坪ビオトープの日記

延暦寺、西塔


東塔から北へ1kmほどのところに、延暦寺西塔がある。第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれた。本堂にあたる釈迦堂を中心に、修行のお堂である担い堂などが点在する。担い堂や釈迦堂に向かうとすぐに五重照隅塔があり、近くに小さな箕淵弁財天がある。比叡山三弁財天の一つである(ほかに東塔・無動寺の弁財天、横川の箸塚弁財天)。

参道を進むと左側の杉木立ちの手前、古い石垣の間の石段の先に「親鸞聖人ご修行の地」なる石標がある。9歳の春に京都の青蓮院で得度・出家した親鸞(1173~1263)は、修行のため比叡山に登り、この地にあった聖光院などで20年間、念仏三昧の修行を行ったとされる。往時の聖光院は信長の焼き打ちのため現存していない。

さらに進むと左側に「真盛上人修学之地」の石碑が見えてくる。かつてこの地には、西塔南谷に南上坊があり、後に真乗院が建っていたという。真盛上人(1443~95)は、19歳で比叡山南上坊の慶秀に師事、20年修行を続けた。後に麓の坂本に西教寺を再興し、天台宗真盛派の開祖となった。

まもなく常行堂と法華堂の二つのお堂が並び建つ、担い堂が現れる。左(西)の常行堂と右(東)の法華堂の間は高い廊下で繋がり、ここを担い棒(天秤棒)に見立て、二つの伽藍を担ぐようであるとして担い堂と名付けられたという。かつて両堂は、東塔、横川にもあったという。

左の常行堂は、方5間、一重宝形造栩葺で、正面に1間の向拝を付ける。外観は蔀戸と板唐戸を用い、文禄4年(1595)の建立である。阿弥陀如来を本尊とし、常行三昧を修するお堂である。

廊下の部分は、桁行4間、梁間1間、唐破風造の渡り廊下で、力持ちの弁慶が担いだという伝承もある。右の法華堂は、当初天長2年(825)に円澄と延秀により建立され、普賢菩薩最澄筆の法華経が安置された。現在の建物は、文禄4年(1595)の建立。方5間、一重宝形造栩葺で、正面に1間の向拝を付ける。

法華堂は、法華経に基づく半行半坐三昧(四種三昧のうちの止観行)の天台止観実験道場であり、普賢菩薩を本尊とし、法華三昧を修するお堂である。

担い堂の渡り廊下をくぐって進むと、広々とした境内の向こうに釈迦堂が建っている。正式には転法輪堂というが、本尊として最澄自作と伝わる釈迦如来を祀ることから釈迦堂の名で親しまれている。転法輪とは釈迦の講義の意で、すなわち西塔の講堂である。延暦寺に現存する最古のお堂で、西塔の中心をなす本堂とされる。従前の釈迦堂は、天長11年(834)に円澄により創建されたのだが、元亀2年(1571)の信長による比叡山焼き討ちで焼失した。現在の釈迦堂は、元は大津の園城寺三井寺)の弥勒堂(金堂)であったものを豊臣秀吉の命により、文禄4年(1596)に比叡山に移築したもので、その造営は貞和3年(1347)とされている。桁行7間、梁間8間、一重入母屋造栩葺形銅板葺で、国の重文に指定されている。根本中堂と同じく天台様式の典型で、内陣は土間中央に本尊を安置する宮殿を壇の上に設けている。建物正面の柱間がすべて戸口になっているのが珍しく、側面は前より2間が戸口、他は連子窓が板壁になっている。

境内の一角に五輪塔が建ち、かたわらに「法然上人ご修行地 青龍寺」の石標が立つ。釈迦堂の裏手には、研修道場の居士林、相輪橖、さらに北谷には室町時代末期の建立とされる瑠璃堂があり、その先の黒谷には青龍寺があるというのだが、時間がかかりそうなのでここで切り上げた。青龍寺は、浄土宗の祖・法然(1133~1212)の若い頃の修行地とされ、本尊は源信作という阿弥陀如来坐像である。