半坪ビオトープの日記

延暦寺、横川


西塔からさらに4kmほど離れた、延暦寺三塔の中で一番北の横川地域は、慈覚大師円仁によって開かれ、源信親鸞道元日蓮など、後に名僧といわれた人たちが修行に入った地である。参道沿いには親鸞道元日蓮の誕生から入滅までの一生を描いた「布教伝道絵看板」が並ぶ。絵看板が終わると左手に、龍ヶ池がある。

龍ヶ池は、九頭龍池あるいは赤池とも呼ばれ、古来から元三大師(良源)と大蛇の物語が伝わっている。昔、坂本や仰木に現れ悪事を働いていた大蛇が、元三大師に諭され前非を悔い、龍神となって横川を訪れる人々の道中安全と心願成就の助けをすると大師に誓ったという。また、この地に弁財天が勧請され、その使いにされたという。ここに祀られている龍ヶ池弁財天は、別名、「雨乞いの弁天様」ともいわれる。

龍ヶ池弁財天の先の右手の懸崖に、舞台造で丹塗りの大きな横川中堂が建っている。首楞厳院(しゅりょうごんいん)または根本観音堂とも呼ばれ、横川の中心となる建物である。慈覚大師円仁が伝教大師最澄の教えに基づき嘉祥元年(848)に創建した。織田信長による焼き討ち後の慶長年間(1596~1614)に再建された大堂は、昭和17年に落雷のために全焼した。その後、昭和46年に復元された中堂は、鉄筋コンクリート造ではあるが淀君が改築した様式を踏襲して設計され、屋根は遣唐船に似せて船形となっている。平安時代作といわれ重文に指定されている本尊の木造聖観世音菩薩立像と毘沙門天像の2尊が安置されている。

横川中堂から東に向かう参道の脇には西国三十三箇所石仏が祀られ、虚子之塔などもある。参道突き当たりには鐘楼が建っている。

鐘楼前を北に向かうと、突き当たりの左手に元三大師堂が建っている。第18代天台座主として19年間在職し、比叡山中興の祖と仰がれる慈恵大師良源(912~85)が開いた厄除け・息災祈願の根本道場である。

元旦の三日に亡くなったので、通称元三大師と呼ばれる。門下生は3000人といわれ、この中から浄土教の祖・恵心僧都源信)や慈忍和尚(尋禅)、覚超僧都などの名僧が輩出した。

常に横川に住し、法力、霊力の持ち主としてもしられ、護法の権化として人々の魔を除き、家庭の厄除け、五穀の農作の守り神・「角大師」として今日も広く信仰を集めている。また「おみくじ発祥の地」としても知られている。今でもまず僧侶の前で自分の悩み事を話し、おみくじを授受する。ついでそのおみくじに書いてある内容について10分ほど僧侶から教えを受けねばならず、そのためおみくじ代は高価であるという。
ここでは角大師、降魔大師などのお札も授与している。これは元三大師が厄難の原因である魔を払い除けるために変化された姿で、神棚、仏壇、床の間、玄関の見返りなどに貼るものである。

良源の住房であった定心房の跡を継ぐお堂であり、康保4年(967)から村上天皇の命により、ここで法華経論議法要が春夏秋冬に行われたので、「四季講堂」とも呼ばれている。桁行5間、梁間4間、一重入母屋造瓦棒銅板葺の建物で、現存建物は承応元年(1652)の建立とされる。正面中央は双折唐戸、その左右に蔀戸と舞良戸を嵌め、側面はほとんどが板壁で囲まれた素木造で、低い縁高欄が周囲を廻っている堂々たる風格の建物である。

はじめは弥勒菩薩を本尊としていたが、今は元三大師の画像を本尊として祀っている。堂内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。

昔、疫病が大流行した頃、元三大師は疫病神の退散を祈願するため、夜明けに鏡の前で禅定に入ると、みるみる鏡に映った姿が変化して骨ばかりの鬼の姿になった。その姿を弟子に描かせ、それを護符として配ったという。これが「角大師」と呼ばれる護符であり、この鏡が元三大師の姿を写したとされる鏡である。

元三大師堂の向かいにあたる、比叡山行院や定光院への分岐点に、比叡山三弁財天の一つである箸塚弁財天がある。あとの2ヶ所は、無動寺弁天堂と、西塔の箕淵弁財天である。鳥居の右脇には亀石がある。

元三大師堂のさらに東や北にも、比叡山行院や定光院、元三大師御廟などがあったのだが、先を急いで引き返すことにした。帰りがけに横川中堂の脇を通ったが、懸造りの北側は工事中で足場が組まれていた。