半坪ビオトープの日記

浮御堂


横川から北西に比叡山を下ると、琵琶湖岸に近江八景堅田落雁」で名高い浮御堂がある。浮御堂は、臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある、湖上に突き出た仏堂で「堅田の浮御堂」の通称でも知られる。山門は、禅宗の寺院でよく見かける龍宮造の門で、下部は漆喰塗り、上部は木造の入母屋造。下層に屋根がなく上層に高欄を巡らせているのが特徴である。

山門を潜って境内に入るとすぐ左手に、阿波野青畝の句碑が立っている。「五月雨の 雨だればかり 浮御堂」阿波野青畝(1899~1992)は、奈良県出身の俳人で、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに「ホトトギス」の四Sと称された。

浮御堂のある堅田は、琵琶湖の最狭部の西岸に位置し、中世における交通の要地であり、戦略上の重要拠点でもあったため、たびたび戦場となり満月寺もしばしば兵火に見舞われた。その後、徳川時代に復興された。入母屋造の客殿は、宝暦4年(1754)建立の建物で、北側面に式台付玄関を構える。内部は、前列に8畳と10畳の客間、後列に内玄関と仏間を配し、正面および南側面に広縁を廻す。

客殿の向かい、参道の左手に観音堂が建っている。入母屋造平屋建瓦葺の三間堂、明和3年(1766)建立で、満月寺の本堂にあたる。

観音堂内には、満月寺の本尊で秘仏である平安時代作の「聖観世音坐像」が中央の黒い仏壇の中に安置され、左には十一面観世音立像が、右には薬師如来坐像が安置されている。

観音堂のすぐ右脇にもいくつか石碑が立つが、読み取ることはできなかった。

境内と仏堂をつなぐ石橋は、約17mの長さがある。浮御堂は木造平屋建、瓦葺の三間仏堂である。橋の右手前には、高桑蘭更の小さな句碑がある。「病雁も 残らで春の 渚かな」高桑蘭更(1798没)は、金沢出身の江戸後期の俳人。京都で医業をしながら蕉風隆盛に努めた。

平安時代の長徳年間(995年頃)、比叡山横川の恵心僧都源信)が、山上から琵琶湖を眺め、湖中に一宇を建立し、湖上交通の安全と衆生済度のため、自ら一千体の阿弥陀如来を刻んで、「千体閣」「千体仏堂」と称したのが浮御堂の始まりである。江戸時代から昭和9年(1934)までの浮御堂は、桜町天皇より京都御所能舞台の下賜を仰いで建立されたものであった。現在の浮御堂は、室戸台風による倒壊の後、昭和12年(1937)の再建である。

堂の反対側、裏の琵琶湖側に、浮御堂の扁額が掲げられている。

堂内には「阿弥陀仏一千体」を安置し、「千体仏」と称している。正面だけでなく、両側の壁にもたくさん並べられている。

浮御堂の裏からは、東に伊吹山長命寺山、近江富士(三上山)、沖ノ島が、西には比叡山、比良の連峰が、北には琵琶湖大橋(1350m)が、眼前には広々とした湖水を一望できる。浮御堂横の湖中には、高浜虚子の句碑が建てられていたが、3年前に水上バイクに衝突され根元から折れてしまった。「湖も この辺にして 鳥渡る」

浮御堂にはたくさん松が植えられている。いずれも樹齢200年以上の大樹で、なかには600年以上の松もあるという。風花雪月それぞれの趣があり、古くより堅田は京都に近く交通の要所で、一休和尚、蓮如上人が錫をとどめ、芭蕉、一茶、広重、北斎等が杖をひいて、多くの詩歌、絵画を残している。湖岸近くに芭蕉の自然石の句碑が二つ立っている。向かって右の小さい句碑には、「鎖空けて 月さし入れよ 浮御堂」とある。元禄4年(1691)義仲寺の月見に引き続き、船で湖上に遊び十六夜の月を詠んだ句である。寛政7年(1795)建立。
左の大きい句碑には、「比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋」とある。元禄3年に詠まれた句。琵琶湖を隔てて相対する比良山と三上山には雪が積もっているが、白鷺よ、この山からあの山に七夕の鵲のように白い橋を渡してほしい、との意であり、この句を実現させたのが琵琶湖大橋だといわれる。

これが浮御堂の裏手の正面の琵琶湖であり、対岸に見えるのが近江富士と呼ばれる三上山(432m)である。