半坪ビオトープの日記

延暦寺東塔、文殊楼


根本中堂の真東の高台に建つ文殊楼は、延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を上ってくると、まずこの門を潜ることになる。慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って建立を開始し、円仁示寂後の貞観6年(864)に創建したものだが、その後何度も焼失し寛文8年(1668)にも焼けた。その後、同年中に建てられたのが現在の建物である。文殊楼は、もとは最澄によって常坐三昧一行院として弘仁9年(818)に建立が企画されたもので、一行三昧院とも称されている。

桁行3間、梁間2間、入母屋造銅板葺の二階二重門である。二階は床を張って文殊菩薩を安置する。初重には扉を設けず、両脇を板壁で区切って室としている。和様を基調としながらも、柱の粽・台輪や花頭窓などに禅宗様を加味している。急な階段を上り二階に行くことができるが、狭いので一方通行にしている。

文殊楼の脇には幾つかの石碑がある。円仁の在唐を支援した張保皐(チャン・ボゴ)顕彰碑がよく知られているが、漢俳碑という石碑もある。この漢俳碑は、比叡山開創1200年を記念し、中国仏教協会から贈られた漢文の俳句(漢俳)五首(比叡山讃、趙樸初)が刻された石碑である。

文殊楼から、昼食を予定している宿坊・延暦寺会館に向かう途中、右手前に大書院の門があった。皇室・高僧・勅使の宿坊・休憩所に迎賓館として使用されているそうだ。

延暦寺会館は、延暦寺の宿坊で誰でも宿泊できる。泊まれば部屋・大浴場から眼下に琵琶湖の絶景が見られるが、昼前後に延暦寺を参観する場合には、ここにあるレストランで精進料理の昼食をとると琵琶湖を見渡せるので便利である。杉木立の間から麓の坂本や琵琶湖が見下ろせるが、残念ながら対岸は霞んでよく見えなかった。

精進料理は、弁当から懐石料理まで各種あるが、この比叡御膳が豆腐の小鍋やこんにゃくの刺身、ごま豆腐、がんもどきなどが揃ってお手頃であろう。

館内には「比叡山延暦寺の全景」の絵図が掲げられ、東塔・西塔・横川のほか、無動寺や比叡山山頂、麓の坂本などの位置関係がわかり興味深かった。

昼食後は戻って阿弥陀堂に向かうが、文殊楼のすぐ下あたりに大黒堂が建っている。最澄比叡山に登った折、この地で大黒天を感見したところで、日本の大黒天信仰の発祥の地といわれている。現在でも天台宗の寺院では、大黒天を厨房神として崇拝している。本尊の大黒天は「三面出世大黒天」といわれ、大黒天と毘沙門天と弁財天が一体になった姿をしている。

大講堂の前を通り過ぎたところに石段があり、上ると戒壇院が建っている。天台宗の僧侶になるために必要な大乗戒を受けるところである。桁行3間、梁間3間、一重宝形造栩葺(とちぶき)の建物で、正面に軒唐破風を付ける。外観は、裳階(もこし)をつけていることから二重屋根のように、柱間も方5間のように見える。天長5年(828)に創建され、現在の建物は延宝6年(1678)に再建されたもので、国の重文に指定されている。和様・唐様両様式を併せ持ち、木部に丹や黒の色彩を主に施し、内部は石敷きで、石の戒壇を築いている。内陣中央に釈迦如来、両脇侍に文殊菩薩弥勒菩薩が祀られている。

戒壇院下の道を左に進み、右手の石段を上がると宝形屋根、丹塗りの阿弥陀堂が建っている。檀信徒の先祖回向の道場であるが、一般の回向法要も行う。昭和12年(1937)に建立され、桁行5間、梁間5間の方5間で、国の重文に指定されている。鎌倉初期の手法を凝らした純和様式がとられ、内部の彩色は藤原時代に模して艶やかで、内陣天井廻りは美しい極彩色を施している。本尊は、丈六の阿弥陀如来である。

阿弥陀堂の左奥に、法華総持院東塔が建っている。法華総持院とは、東塔・灌頂堂・阿弥陀堂などの総称で、平安初期に円仁が創建した。信長に焼き打ちにされた後、長い間再建されなかったが、昭和55年に再興された。伝教大師最澄は、「一隅を照らす」という教えを広めるため、日本全国に6カ所の宝塔を建て、日本を護る計画を立てたが、その中心の役割をするのがこの東塔である。高さ30m、木造檜造、重層多宝塔形式に建てられ、国の重文に指定されている。本尊として大日如来をはじめとする五智如来が祀られ、塔の上層部には仏舎利法華経千部が納められている。