半坪ビオトープの日記

延暦寺東塔、根本中堂


大講堂前からさらに進むと、広場の右手に一隅会館という休憩所があり、その右手前に萬拝堂がある。萬拝堂は、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に奉安し、日夜平和と人類の平安を祈願しているという。

萬拝堂の前の根本中堂大坂を下ると、根本中堂が左手に建っている。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、延暦寺の総本堂である。

東塔の根本中堂は、宗祖最澄伝教大師延暦7年(788)に一乗止観院という草庵を建てたのが始まりで、その後何回も火事や兵火によって焼失している。永享7年(1435)には、将軍足利義政が山門使節を処刑したことに抗議して、山徒が根本中堂に立て籠もって火をつけ集団自決する事件が起こった。明応8年(1499)には、細川政元延暦寺が対立した為に、政元の家臣・赤沢朝経と波々伯部宗量によって焼き討ちされた。元亀2年(1571)には織田信長により焼き討ちされたが、復興のたびに規模も大きくなった。現在の建物は、慈眼大師天海が徳川家光に進言して寛永19年(1642)に再建されたものである。

根本中堂は、桁行11間、梁間6間、軒高約9.8m、棟高約24.5m、一重入母屋造の総欅造である。滋賀県最大級の仏堂といわれ、国宝に指定されている。南側に中庭が配置される寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台がある。長さが90mもある手前の廻廊は、国の重文に指定されている。廻廊が大きくて根本中堂は屋根しか見えないし、中は撮影禁止なので根本中堂も撮れない。

堂内は外陣・中陣・内陣に分かれる。本尊を安置する内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名「修行の谷間」と呼ばれる。内陣の本尊・不滅の法灯と中陣の参詣者の高さが同じという珍しい構造になっており、これを天台造または中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特色を示している。中陣の天井は「百花の図」といわれ、200に及ぶ草花が獄彩色で描かれている。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれる。中陣中央には玉座があり、その上に昭和天皇が書いた「伝教」という額が掲げられている。堂内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。

本尊は伝教大師が自ら刻んだといわれる秘仏薬師如来である。本尊の前には六角形の釣燈篭が3つあり、延暦寺創始以来1200年間灯り続けている「不滅の法灯」が安置されている。

根本中堂の前の急な石段を上ると文殊楼が見えてくる。振り返ると杉の木立の間から根本中堂が見下ろせる。根本中堂の屋根の下も少しだけ垣間見ることができる。