半坪ビオトープの日記

書写山円教寺、奥の院


「三之堂」からさらに奥へ進むと、「奥の院」に出る。左から護法堂拝殿、開山堂、護法堂、不動堂と並んでいる。一番左手前の護法堂拝殿は、珍しく右手の護法堂と広場を挟んで離れて向かい合っている。神社形式を取り入れた仏殿様の風変わりな建物で、天正17年(1589)に建立された。その昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、7歳から10年間この山で修行したことから「弁慶の学問所」と呼ばれ、今でもその勉強机が先ほどの食堂に残されている。

いちばん右手前の建物が不動堂で、延宝年間(1673-81)に建立された。明王院の乙護法を祀る。山内唯一の丹塗りで、俗に赤堂と称されていた。昭和42年の暴風雨による土石流で全壊したが、昭和51年(1976)に再建された。

不動堂と開山堂の間に乙天社・若天社と2棟並ぶのが護法堂である。それぞれ1間社隅木入春日造の檜皮葺の社殿。永禄2年(1559)建立。各社前に寛文年間(1661-72)に建立された石造の明神鳥居が立つ。乙天・若天は、性空を守護した護法童子とされ、不動明王毘沙門天の化身とされる。

開山堂は、宝形造、本瓦葺、桁行5間、梁間6間で、開山の性空を祀る。書写山のシンボルとして燈明が燃え続け、朝夕欠かさず勤行が行われている円教寺奥の院の中核である。現在の堂は寛文11年(1671)に再建されたものであるが、江戸初期の開山堂建築の代表作として、国の重文に指定されている。

寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007)、性空の高弟・延照が創建したとする。軒下の四隅には左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻があるが、西北隅の一つは重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。

本尊として厨子内に、像高89.6cmの木造性空坐像が安置されている。記録によれば、弘安9年(1286)に焼失した旧像に代わり、正応元年(1288)に作られたが、頭頂部に焼け残った瑠璃壺に納められた性空の遺骨が納入されている。

開山堂の北側斜面に「和泉式部の歌塚」が建てられている。天福元年(1233)建立の宝篋印塔である。伝説では、一条天皇中宮彰子に仕えていた和泉式部が、彰子や他の女房たちと性空上人を訪ねたが会ってくれなかった。そこで式部は寺の柱に「くらきより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」と和歌を書いて立ち去ろうとした。この歌に感心した上人は、一行を呼び戻して丁重に教えを垂れたと伝えられている。

奥の院や三之堂の南にも境内が広がっているので、奥の院から左に回り込んで戻ることにする。展望公園の手前に金剛堂が建っている。永観2年(984)建立の旧塔頭・普賢院の持仏堂で、天文13年(1544)に建てられている。方3間、入母屋造、本瓦葺。昭和33年(1958)に修理された。延文4年(1359)康俊作の本尊・木造金剛薩埵坐像は、食堂2階の宝物館に安置されている。

金剛堂の先に大きな鐘楼が建っている。桁行3間、梁間2間の入母屋造、本瓦葺。袴腰付で腰組を持った格式ある鐘楼である。寺記によれば、元亨4年(1324)に鐘を再鋳したとあり、鐘楼は元弘元年(1331)に焼失、翌年に再建されたという。後ろに見えるのは法華堂(法華三昧堂)で、本尊は普賢菩薩である。

さらに下って行くと、参道左手に大黒堂が建っている。方1間の切妻、妻入、本瓦葺、向拝付の小堂だが、詳細は不明である。

参道右手には苔むした瑞光院が建っている。往時は多数あった講の宿院をかねていたというが、創建、縁起は不詳。本尊は六臂如意輪観世音菩薩。この先、摩尼殿の下に出たので、そのまま参道を下り、途中からバス道に合流して書写山上駅にたどり着いた。