半坪ビオトープの日記

書写山円教寺、摩尼殿


2016年8月に法然の故郷、岡山県の誕生寺と菩提寺を訪ねる旅に出た。ついでに姫路城や大原美術館吉備津神社や後楽園にも立ち寄り、日本海側に出て玄武洞天橋立気比神宮や琵琶湖の竹生島まで見て回った。朝5時に東京から車で出かけたが渋滞に逢い、姫路の奥座敷と呼ばれる郊外の塩田温泉に着いたのはすでに夕方だった。翌朝、書写山にある天台宗の別格本山円教寺圓教寺)を訪れた。境内は姫路市街地の北方に位置する標高371mの書写山の山上一帯を占め、古来より登山道として東坂、西坂など六つの参道があったが、昭和33年(1958)に開通したロープウェイ山上駅から仁王門を経て摩尼殿へ上る参道が主となっている。

徒歩で20分あまりかかる摩尼殿の近くまでバスの便もあり、山上駅すぐの慈悲の鐘の所で二手に分かれる。近畿自然歩道の一部でもある山上駅から仁王門へ至る参道は、「西国巡礼の道」と称され、左右に西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が安置されている。

10分ほど急な坂道を登ると仁王門が建っている。切妻造、本瓦葺、桁行3間梁間2間、三間一戸の八脚門で、元和3年(1617)の再建である。安置する木造金剛力士像2体は、室町時代の作である。

仁王門のすぐ先右手に塔頭の寿量院がある。長和3年(1041)性空の高弟・延照が建立。承安4年(1174)に後白河法皇が7日間参籠した。本尊は阿弥陀如来円教寺西国三十三所のうち最大の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格が高く、中世には比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法王も多かった。寿量院では精進料理も予約できる。

なおも参道を進むと、左に円教寺会館(金輪院跡)があり、右手に塔頭の十妙院がある。十妙院の創建は不詳だが、当時の播磨・備前美作国守護職・赤松満祐が16歳で没した娘の菩提を弔うため開いたとされる。その後、実祐が中興し、永禄元年(1558)には正親町天皇から「十妙院」の勅号を賜った。現在の建物は、元禄4年(1691)の建立。仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを合わせた構造で、寿量院とともに円教寺型ともいえる独特の構造を持つ。本尊は千手観音立像。方丈部の室には狩野永納(1634-1700)の襖絵があり、特別公開時には見ることができる。十妙院辺りまでを東谷という。

やがて権現坂を下っていくと、摩尼殿のある中谷となる。右手にはづき茶屋を見て、姫路城主・本多忠政が寄進したという湯屋橋を渡ると、観音堂である摩尼殿に上る石段があり、その右手に三十三所堂が建っていて、西国三十三所の観音像が安置されている。

摩尼殿のマニとは梵語の如意の意で、以前は如意輪堂といった。性空入山4年後の天禄元年(970)に、生木の桜に如意輪観音の像を刻み、3間四方の堂を建てたのが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建とされ、本尊は如意輪観音である。摩尼殿の号は承安4年(1174)に参詣した後白河法皇による。

入母屋造、本瓦葺、懸造(舞台造)の仏堂で、旧堂は大正10年(1921)に焼失し、昭和8年(1933)に再建された。

内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左から広目天増長天如意輪観音(本尊)、多聞天持国天の各像を安置する。いずれも秘仏で、1月18日の修正会に開扉される。

本尊の木造如意輪観音坐像は、昭和8年石本曉海作の六臂の坐像で像高97cm。摩尼殿の厨子内から発見された像高19.8cmの如意輪観音坐像は、桜の一木造で、像底の銘より延応元年(1239)当時の住僧・妙覚により供養されたものと判明している。木造四天王立像は、ヒノキの一木造で、寺の創建当時、寛和2年(986)頃の作とみられる。摩尼殿再建前は大講堂の釈迦三尊像の周囲に安置されていた。

摩尼殿裏手の道を進むと、右手に昭和53年に再建された杣観音堂が建っていた。詳細は不詳だが、杣(そま)とは、国や有力貴族、寺院が所有していた山林や、そこで産出された木材、労働者などを指すことから、円教寺建築に使用された材木関係者のために建てられたと考えられている。本尊は石造如意輪観音像である。その先右手に青銅製の大仏=毘盧遮那仏が野ざらしで安置されている。自然石を積みあげた上に金属製の台座を設けてある。宝蔵跡より真言堂跡地に移座された。