半坪ビオトープの日記

西厳殿寺


阿蘇パノラマラインを北に下ると、阿蘇駅の手前の黒川に天台宗阿蘇山西厳殿寺(さいがんでんじ)がある。先ほどの阿蘇山上広場に建つ、西厳殿寺奥之院に対する麓の黒川の坊で、「麓坊中」と呼ばれた。対して山上の坊舎跡は「古坊中」と改称された。徳川時代になっても熊本藩の守護は続き、「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。
本坊は、明治時代に建てられた内仏殿に建物を建て増し、檀信徒の回向などに使われている。

貞享4年(1687)比叡山東塔南谷の禅林院大僧都舜敬法印が学頭坊となり100石加増された。以後、学頭坊は阿蘇一山の衆頭となる。その後、明治初期の神仏分離令によって西厳殿寺の廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし明治4年(1871)に山上本堂を麓坊中の一つ学頭坊に移し、明治7年には学頭坊を西厳殿寺(麓本堂)として法灯は継承された。明治23年(1890)には山上本堂・奥之院が再建された。平成13年(2001)不審火により麓本堂が焼失する事件が起き、仏像7体も焼失した。現在、旧本堂下の本坊に、寺宝として後奈良天皇の御宸筆をはじめ、阿弥陀如来坐像(本尊)・釈迦誕生仏・大黒天坐像などが所蔵されている。

本坊脇に昔の山門があり、正面の急な石段を上ると旧本堂が建っていた境内となる。夏目漱石の『二百十日』の一節に「石段は見えるが・・・本堂も何もないぜ・・・焼けちまったか・・・」とあるが、この石段のことである。

石段の途中、右手に苔むした坊中天神社が建っている。天神として学業の神・菅原道真を祀っている。

西厳殿寺の開基には2説ある。寺院が採る神亀3年(726)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・健磐龍命を感得したとする。天養元年(1144)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする。共通するのは、阿蘇山の火口の西巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師」と呼ばれたとするところである。阿蘇山上に最栄が庵を開いてから多くの修行僧、修験者が集まり、坊舎を建て修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵といわれる。しかし本堂や古坊中は、天正年間(1573~92)に島津と大友の戦乱時に焼き払われ、秀吉の九州統一時に宗徒などは寺を去ったという。その後、肥後に入部した加藤清正により再興され、山上本堂を修復し、麓の黒川村に三十六坊が復興された。
石段の上には広い境内があるが、ここにあった麓本堂は平成13年の不審火により焼失してしまい、足手荒神堂だけが残っている。足手荒神堂とは約400年前、佐々成政との合戦に敗れた御船城主の甲斐宗立が落ち延びて村人に匿われ、「我が死後はこの地にとどまり、手足の病苦の守り神とならん」と言い残して死んだという伝説に由来する。

西厳殿寺の足手荒神堂は御船より勧請されたといわれる。ここには絵馬の代わりに手形や足形に名前を書いて奉納する。堂内には役小角の石像などがたくさん安置されている。お堂の左隅には、黒曜石が張られた「鏡石」が安置されていて、石を撫でた後、体の痛い部分に触れると痛みが和らぐと信仰されている。

足手荒神堂内左手には、男鬼像と女鬼像が並び、その後ろに髭を生やした役小角石像が安置されている。どちらも阿蘇町文化財に指定されている。 

足手荒神堂内右手には、石像が二体安置されている。庚申信仰の本尊である青面金剛像であり、病魔退散の力を有するとされる。

足手荒神堂の左手には、厨亮俊僧正の墓がある。厨僧正は筑後国高良山蓮台院の住職だったが、明治9年檀信徒に請われて、再興された西厳殿寺の住職となった。翌年西南戦争が起こって薩軍阿蘇に進入し、それに乗じて阿蘇では一揆が起こった。厨僧正はそれを鎮めるため奔走したが、薩軍に捕まり責めを受け、非業の死を遂げた。行年44歳。毎年西厳殿寺では、厨僧正の命日・4月13日に阿蘇山観音祭りを執り行っている。山伏の姿をした行者たちが「火渡り」や「湯立て」などの荒行で、一年間の無病息災を願うものである。厨僧正辞世の句「こうして こうさきや こうなるものは 知りつつ こう咲く山桜」

厨亮俊僧正墓の背後の左右には、たくさんの石仏が並べられている。

西厳殿寺本堂の焼け跡には礎石のみが残されている。その脇には、阿蘇檜(あそひ)というヒノキの大木が立ち、阿蘇町の天然記念物に指定されている。

樹齢約300年ともいわれる西厳殿寺の公孫樹(イチョウ)は、阿蘇市三大公孫樹の一つといわれ、町の天然記念物に指定されている。